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日本人の物語01176【南北朝末期】瓜破城の戦い

大阪府が誇る難読地名といえば「喜連瓜破駅」ですよね。「きれうりわりえき」と読みます。他にも「放出」などが有名ですかね。「はなてん」と読みます。

 後円融天皇の治世が始まり、幕府はいよいよ南朝との戦いを終わらせるべく動かなければなりません。
 建徳2/応安4(1371)年4月。楠木正儀の居城である瓜破城(うりわりじょう:大阪市平野区)が南朝方の攻撃を受けたため、頼之は諸将に正儀の救援を号令しました。ところが諸将はちっとも動こうとせず、真面目に戦おうとするのは頼之の養子の頼元くらいです。
 というのも、かつて敵だった正儀が河内・和泉・摂津住吉郡(合計するとほぼ現在の大阪府全域に相当)の2国1郡の守護となっていることに、不満を抱く者が多かったようなのです。確かにこれだけの規模の領地は、本来なら4名程度の守護が分け合って統治するレベルなのに、新参者の正儀がたった1人で治めるとなると、物議を醸すのは当然です。
 結局、管領頼之の命令にもかかわらず、救援軍は淀川を渡ることすら拒否しました。5月20日、頼之は怒りのあまり
「管領を辞めて出家する」
と言って西芳寺(京都市西京区)に引き籠もります。
 これには当時12歳の将軍義満も慌てました。義満は西芳寺に駆けつけて頼之を説得にかかり、将軍名で正儀の支援を命令する旨を約束することで、どうにか頼之の出家を思いとどまらせることができました。
 その後、将軍義満の命で改めて正儀支援が決まり、瓜破城の攻防戦は北朝有利に進めることができ、11月5日、遂に南朝軍は撤退しました。頼之は父の仇である正儀を自身の職を賭してまで守ったのでした。(頼之の父・頼春は第四次京都合戦で正儀に討たれています。01051回参照)
 この間、北陸でも幕府は有利に戦いを進めていました。7月28日、五位荘(富山県高岡市)で桃井直常と吉見氏頼が合戦し、吉見軍が勝利を収めたのです。
 敗北した桃井直常は8月8日に飛騨へと逃亡していきました。この後の直常の消息は不明です。直常の最期の地についても次のとおり複数の伝説があります。
〇上野国群馬郡桃井郷(群馬県吉岡町)
 三国街道沿い側に桃井塚と呼ばれる五輪塔がある上、近所の「元播磨」という地名は、播磨守であった直常が隠棲していた名残りといわれています。
〇松倉城(富山県魚津市)
 松倉城に逃れた後病死したとの説です。
〇岩瀬城(富山県富山市)
 岩瀬城に逃亡後、斯波義将らの兵に囲まれて自害したとの説です。
 いずれにせよ、幕府を長年に渡って悩ませてきた直義党の最右翼・桃井直常の活動も、ここで終焉を迎えたこととなります。

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