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日本人の物語00305【平安中期】承平天慶の乱 成田と神田明神

 「承平天慶の乱」の稿を閉じるに当たって、この反乱を契機に建立された成田山新勝寺(千葉県成田市)と神田明神(東京都千代田区)を紹介しておきましょう。
 平将門の乱が起こったとき、朝廷は追討軍を差し向けるだけでなく、将門を調伏するための祈願を多くの寺院に命じました。天慶2(939)年、朝廷から命を受けた寛朝(かんちょう:916~998)は、高雄山寺(京都市右京区)に安置されていた空海作の不動明王像を奉じて、将門反乱の地から程近い下総国(千葉県)へと赴きました。
 寛朝がその地で将門調伏を祈ったところ、見事将門は戦死に追い込まれ、朱雀天皇は
「不動明王の霊験である」
と喜びました。
 その後、「寛朝が帰洛しようとしても不動明王像が動かずびくともしない」という不思議な現象が起きました。朱雀天皇は
「ではそこに霊場を拓くべし」
と命を下し、寛朝を開祖とする成田山新勝寺が建立されました。新勝寺には今も空海作と伝わる不動明王像が本尊として安置されています。
 一方、神田明神は天平2(730)年に神田の地に転住した出雲系の氏族がオオクニヌシを祭神として祀ったことに始まります。その後、戦死した将門の首が京から移動してこの近くに落下し、将門の首塚が作られたわけですが、14世紀になって疫病が流行したのが将門の祟りであろうと恐れられたことから、神田明神では延慶2(1309)年から平将門を祀り始めました。現在、神田明神の祭神は第一がオオクニヌシ、第二がスクナビコナ(00082回参照)、第三が平将門となっています。
 つまり、成田山新勝寺は将門を滅ぼすために作られ、神田明神は将門を供養するために作られたという関係にあるわけで、今でもこの両方に参拝することは良くないこととされています。
 成田山新勝寺は、節分の日に大々的な豆まき行事がなされることで知られ、NHKとタイアップして大河ドラマの出演者を参加させることとなっています。ところが、宗教上の理由でこれが実現できない年がありました。昭和51(1976)年の大河ドラマは平将門を主人公とした『風と雲と虹と』であったため、将門調伏のために建てられた新勝寺で将門を演じる俳優・加藤剛を参加させるわけにいかなかったのです。
 平将門の乱は遠い昔の出来事ですが、今も成田山新勝寺には毎年大勢の初詣客が訪れますし、神田明神で行われる神田祭は江戸三大祭の一つとして今も毎年実施されています。将門の事績は現代にまで多くの影響を及ぼしているのです。

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