日本人の物語01284【室町/義持期】義嗣と斯波義将
何度か解説したことがありますが、「正三位」「従三位」などの階級的なものは「位階」と呼ばれ、「加賀守」「上野介」などの役職的なものは「官職」と呼ばれています。官職とは「補される(ぶされる)」又は「補任(ぶにん)される」ものであり、位階とは「叙される(じょされる)」ものです。
さて、義満の人事を次々とひっくり返してきた義持でしたが、義満時代から引き続き重視せざるを得なかった人物が2人いました。弟の義嗣と、有力守護・斯波義将です。
義嗣については、義満が格別に引き立ててきたわけで、義持もその流れをとりあえずは踏襲していました。応永15(1408)年12月26日に義嗣と一緒に参内した義持は、その後も次々と義嗣の官位引き上げを申請します。応永16(1409)年1月5日には正三位、閏3月23日には加賀権守、7月23日には権中納言に昇進させました。
また、兄弟での旅行も頻繁に行っています。6月25日には兄弟一緒に兵庫を巡遊し、11月19日には一緒に石清水参詣、12月11日には北野社に行って同宿しています。この兄弟は最終的には決裂する運命にあるのですが、この時点では確執が発生しないよう心を砕いている様子が窺えます。
もう一人の重要人物が斯波義将です。義将は長年に渡って管領職に就いていましたが、この頃は息子の義重が管領となっており、義将はその父として隠然たる影響力を有していました。
応永16(1409)年6月7日。意外な人事が発表されました。管領職が義重から義将に、つまり子から父に移ったのです。義将が管領に就任するのはこれが4度目となります。
この意外な人事の目的はすぐに明らかになりました。6月18日、義将は「日本国管領」の名義で朝鮮国に対し、義満死去と義持の家督継承を伝える書状を送ったのです。つまり外交を主導する上で公的な肩書を必要としたために義将は子から管領職を取り上げたのでしょう。
為政者の代替わりを知った明は使者・周全(しゅうぜん)を派遣してきました。7月5日に義持は北山第で周全と接見し、義満と同様の「日本国王」に封じられました。義満の際には巧妙に「元征夷大将軍」「元太政大臣」に過ぎない義満個人に対する「日本国王」号を出してもらったのに(01267回参照)、今回は現役の征夷大将軍である義持が日本国王になってしまったわけですから、義満より物議を醸しそうな気がします。
この外交儀式を終えた斯波義将は、もはや管領職に用はないとばかりに、8月10日に孫の義淳に管領職を譲りました。斯波家で管領職を独占する勢いです。義持にとっては自身の権力を脅かす存在だったでしょうが、義満にも重視されていた有力者だけに、やむなく重用したのでしょう。
しかし同年冬には、父嫌いの義持らしい出来事もありました。大内盛見が義持の家督継承を祝うため上洛したところ、義持は盛見をひどく気に入って熱心に帰国を引き止めたのです。恐らく、義満に逆らいつつも唯一生き残った盛見に対して、義持は相当な関心を持ったのでしょう。結局、盛見は応永32(1425)年7月まで、15年間も在京することとなったのです。
今回、「北野社」が登場するのですが、これは大分前に登場した菅原道真の怨霊を祀るために作られた神社です。現在は北野天満宮と呼ばれています。本来は受験前に参拝するものなのですが、私は人生で一度だけ、大学受験直後に行きました。
