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日本人の物語01676【室町/西国/六角征伐】明応の政変 将軍捕縛

11代将軍は「清晃→義遐→義高→義澄」とコロコロ名前が変わるのですが、「高」で始まる名前の人物は義高から一字もらったものとご理解ください。あの討伐対象だった六角高頼(討伐時は六角行高と名乗っていた)も、なんと幕府と和解して高頼と名乗るようになります(後述)。

 政元は清晃を将軍に据えるための工作を淡々と開始します。明応2(1493)年4月28日に政元邸に入った清晃は、還俗して「義遐(よしとお)」と名乗りました。
 ちなみに義遐は、五山の僧から「遐」の字は不吉であるとの助言を受けて6月19日に「義高(よしたか)」と改め、明応3(1494)年12月27日に征夷大将軍となり、文亀2(1502)年7月に「義澄(よしずみ)」と改めるのですが、ややこしいのでこれ以降は「義澄」で統一します。
 義材に仕える畠山政長と、義澄を担ぐ細川政元。両者の戦いが始まります。
 明応2(1493)年閏4月7日。政元は義材・政長を討伐するため、家臣の上原元秀(うえはらもとひで:?~1493)・安富元家を河内国に派遣しました。
 政長も負けていられません。閏4月21日は、紀伊国北部の根来寺(和歌山県岩出市)を拠点とする僧兵集団・根来衆に命じて、赤松政則の堺の陣を攻撃させました。
 しかし数の上では政元方が圧倒的に有利でした。「敵の敵は味方」とばかりに、政元は畠山義豊をも味方につけ、閏4月24日にその義豊が総攻撃を加えて正覚寺城は陥落しました。
 実は政元は畠山義豊に対しても早い段階からクーデター計画への参加を促していました。これは興福寺の僧が記録している話なのですが、義材による畠山義豊討伐が始まる直前に、畠山家家臣がこう話しているのを聞いたというのです。
「御動座ありといへども、無為子細たるべし。勢州以下、大名申し下す子細これあり」
 つまり将軍が自ら動いて攻めてきたとしても、何の問題もない、なぜなら勢州(伊勢貞宗)以下の幕閣たちと既に話がついているからだというのです。
 つまり細川政元・伊勢貞宗らは「畠山義豊討伐が始まったら、その義豊を味方につけて将軍を裏切ろう」という計画をあらかじめ義豊に明かし、協力を求めていたわけです。政元のみならず政所執事・伊勢貞宗までもが計画に加担していたとは驚きですが、日記に残された記録ですから信憑性は高そうです。
 閏4月25日。畠山政長は子の尚順を紀伊に逃れさせた上で、腹心の遊佐長直とともに自害しました。義材と側近の葉室光忠は投降し、その身柄は京に送られました。
 閏4月29日。政元は葉室光忠に「斬首」という冷酷な刑を科しました。公家でありながら将軍への取次ぎ役として絶大な権力を握った葉室は多くの武士から嫌われていたらしく、この処刑は多くの武士に歓迎されました。
 一方、義材は虜囚として京に連行され、龍安寺に軟禁されました。

葉室光忠という人物、とにかく嫌われていたとのことですが、具体的にどう悪い奴だったのかがさっぱり分かりません。実は悪い人でもなかったのかもしれません。

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