日本人の物語00589【鎌倉前期】阿野全成粛清
鎌倉幕府では有力御家人や身内の粛清が続きます。次にターゲットとなったのは阿野全成でした。
平治の乱において、夫・義朝が敗北したことを知った常盤が6歳の今若、4歳の乙若、0歳の牛若を連れて家を出たことをお話ししましたが、その今若こそが阿野全成です。つまり頼朝の異母弟ということになります。
阿野全成は、幼くして醍醐寺にて出家させられましたが、治承4(1180)年、以仁王が平家追討の令旨を出すと密かに寺を抜け出し、東国に下って10月1日に下総国鷺沼(千葉県習志野市)で頼朝と対面を果たしました。義経よりも早く合流していたわけです。
全成は頼朝に気に入られ、北条政子の妹である阿波局と結婚しました。阿波局は建久3(1192)年に頼朝の次男・千幡の乳母となったので、全成は言わば千幡の後見人のような役割を果たしていたものと推察されます。
その頃から、駿河国阿野荘(静岡県沼津市)の領地を拝領していたため阿野姓を名乗るようになりました。範頼が源姓を名乗って頼朝の不興を買った一方、全成はこうした点に気を遣っていたようですね。
さて、頼家が鎌倉殿を継いだ後、千幡の後見役たる全成は頼家と対立するようになります。この時点で長男頼家を廃して次男千幡を将軍に担ごうとする勢力がどの程度あったのか不明ですが、頼家としては不満分子は早めに消しておきたいと考えたことでしょう。
建仁3(1203)年5月19日。頼家は全成を謀反人として捕縛し、御所に幽閉しました。その後5月25日には常陸国(茨城県)に配流され、さらに6月23日、大六天の森(栃木県益子町)において頼家の命を受けた八田知家によって殺害されました。
現在、阿野全成の墓はその領地があった静岡県沼津市の大泉寺にあります。
さて、頼家の魔の手は全成の妻である阿波局にまで及んでいます。5月20日、頼家が側近の比企時員を政子邸に派遣し、
「阿波局を尋問したいので差し出すように」
と命じました。しかし政子は
「謀反のことなど女性に知らせるはずがないでしょう。しかも2月以降、全成と阿波局は会っていませんから、怪しいことは何もありません」
と答え、引き渡しを拒絶しました。
思うに、頼家の権限を削ぐための「十三人の合議制」の中にあって、梶原景時は比較的頼家に忠義を尽くす御家人だったと思われます。今回の事件は
「アンチ頼家派の陰謀によって梶原景時が失脚させられたことを受けて、危機感を覚えた頼家が敵対派閥の重鎮たる阿野全成を葬った」
と総括できると思われます。
