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日本人の物語00260【平安前期】54代仁明天皇

 天長10(833)年2月28日。淳和天皇は譲位し、皇太子である正良親王が即位しました。仁明天皇です。
 かつて嵯峨天皇は、弟(淳和天皇)に譲位しつつも、自分の子(仁明天皇)を皇太子に立てたのでしたね。その嵯峨上皇の企図した通りに事は運んでいます。
 さて、淳和天皇は譲位に当たって、自らと正子皇后の間の子・恒貞親王(つねさだしんのう:825~884)を皇太子に据えました。
 一見すると
「なるほど。どの天皇も、皇位は自分の子孫に継がせたいものなのだなあ」
との印象を抱くかもしれませんが、実はこの立太子は淳和天皇の意志ではなく、嵯峨上皇の意志でした。
 というのも、嵯峨上皇は自らの娘・正子を淳和天皇に嫁がせており、その間に産まれたのが恒貞親王なのです。嵯峨上皇にとっては、自らの子である仁明天皇も可愛いでしょうが、愛娘である正子が産んだ恒貞親王も同様に可愛いものなのでしょう。二人とも天皇に据えてやりたい、という思いが芽生えても不思議ではありません。
 しかし、この立太子は淳和上皇にとっては歓迎すべきものではありませんでした。
 なぜなら、前述のとおり藤原冬嗣・良房父子はひたすら嵯峨・仁明父子とばかり太いパイプを結んでおり、淳和・恒貞父子を無視し続けています。恒貞親王には有力な貴族による後ろ盾がないのです。
 そのような状態で皇太子に立てられてしまっては、政争の火種となるばかりで、ろくなことにならないと淳和上皇は考えたようです。我が子をそんな政争に巻き込みたくないと考えた淳和上皇は、再三に渡って
「息子を皇太子の座から下ろしてやってほしい」
と嵯峨上皇に要請しますが、慰留され続けました。皇族の中には、我が子を天皇にしようと必死に工作する人がいる一方で、こんなにも我が子を皇位につけたがらない人もいるのですね。実に珍しいタイプです。
 その後、承和7(840)年5月8日に淳和上皇は崩御し、恒貞親王はますます孤独になりました。皇太子でありながら、その即位を望んでいるのは嵯峨上皇一人だけです。もし嵯峨上皇が崩御すれば、たちまち皇太子の地位が危うくなることは誰の目から見ても明らかでした。
 この不安定な状況の中、嵯峨上皇の崩御をきっかけとして「承和の変」という政変が巻き起こることになります。

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