日本人の物語01025【南北朝前期】尊氏は分裂症か
尊氏の性格の異常さを示すエピソードです。尊氏も異常だし、それを許容する直義も異常ですよね・・・。
戦後処理の議論では、さらに以下のことが決まりました。
・今後の幕府の政務については、義詮が担当し直義が補佐することとする
・九州探題は一色範氏から足利直冬に交代させる
九州探題を尊氏党の範氏から直義党の直冬に交代させることについては、「まあ直義の主張が通ったな」という印象です。ところが肝心の幕府の政務については、尊氏の嫡子たる義詮が担当するというのです。なぜこのような判断に至ったのかは次回詳しく考察したいと思いますが、それにしても尊氏に有利な内容ですね。
同じ正平6/観応2/貞和7(1351)年3月2日。南朝の北畠顕能(きたばたけあきよし:1326~1383)が伊勢で挙兵したとの知らせが入ったため、直義は石塔頼房に鎮圧を指示しました。この顕能というのは、あの北畠顕家の弟に当たります。
これまで幕府内では、直義はあくまで内政のみを担当し、戦には関与していなかったのですが、今回は戦をも差配しようとしているようですね。「今後の政務は義詮が担当し、直義が補佐する」との結論になったものの、義詮がまだ丹波から上洛していなかったので、この時点では直義が指揮するしかなかったのでしょう。
その翌日、またもや気味の悪い出来事がありました。洞院公賢の日記『園太暦』によると、3月3日、四国における直義党の主力であった細川顕氏が、尊氏邸を訪れて面会を申し込みましたが、尊氏は顕氏に対して使者を介して
「降人の身として見参するは恐れあり」
(降参人の分際で将軍に面会を望むとは何事か)
との言葉で面会を拒絶したというのです。細川顕氏はスゴスゴと退出し、
「将軍の迫力に恐怖した」
と記されています。
前日の議論でもそうでしたが、負けたはずなのにあくまで勝ち気な尊氏の態度は不可解であり、南北朝研究の第一人者である佐藤進一氏は
「尊氏は精神分裂症又は双極性障害だったのでは」
とまで主張しています。
一方、中世史学者の亀田俊和(かめだとしたか:1973~)氏は、『園太暦』の原文を
「私(尊氏)は降参人の立場なので、勝利者である顕氏殿と面会するのは差し障りがある」
と訳し、尊氏が自ら降参人であることを認めている発言であると解釈しています。しかしそれだと、細川顕氏が何に恐怖したのか分からなくなってしまうとの批判もあります。
