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日本人の物語00371【平安後期】72代白河天皇

 延久4(1072)年9月29日。延久の宣旨枡が定められました。全国でバラバラだった計量を統一したわけです。このとき、後三条天皇は自らの手で枡の寸法を測ったといいます。
 後三条の権威は高まる一方でした。『古事談』からもう一つエピソードを紹介させてください。
 ある日、内裏に汚い犬がいたので、後三条が「どこかに捨てて来なさい」と命じたところ、「帝は犬がお嫌いである」との情報が出回り、諸国で役人たちが犬を殺し始めました。それを知った後三条は慌てて止めさせたそうです。権威が高まると、このように本人の知らないところで勝手な忖度が始まってしまうものなのですね。
 同年12月8日。後三条天皇は譲位し、子の貞仁親王(さだひとしんのう:1053~1129)が19歳で即位しました。白河天皇です。後三条天皇の治世は5年足らずでした。
 後三条にはまだまだやりたいことがあったでしょうに、なぜ譲位したのでしょう。
 「健康を害したから」という説と、「長男に天皇位を早めに譲ることで、院政を開始したかったから」という説とがあります。後者の説によると、院政の創始者は白河ではなく後三条だということとなります。
 歴代天皇の多くは、「天皇位を自分の子供たちが継いでいけるか」を気にしています。弟に譲位する際、自分の子を皇太子に据えたのに、その後争いがあって廃太子の憂き目を見るということも度々起こっています。そこで、「まだまだ元気な段階で、早期に我が子に譲位して、安心しておきたい」という気持ちになるのは当然ではないでしょうか。
 その際、我が子が未だ幼いので、政治上の実権は自らが行使せざるを得ません。これが院政です。
 当時、白河天皇は19歳で、後三条上皇は39歳です。まさに院政に適した年齢差であるようにも思われますが、果たして譲位の動機は院政にあったのでしょうか。真相は不明です。
 後三条上皇は、次男である実仁親王(さねひとしんのう:1071~1085)を皇太弟に立てました。長男のみならず、次男もかわいかったのでしょう。
 延久5(1073)年。重態に陥った後三条上皇は、
「実仁が即位した際には、輔仁(すけひと:1073~1119)を皇太弟とせよ」
と遺言し、5月7日に崩御しました。
 つまり後三条は、
長男: 貞仁親王=白河天皇
次男: 実仁親王
三男: 輔仁親王
の三人を全て天皇位に就けたがっていたということです。

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