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日本人の物語01197【南北朝末期】南北朝末期総括

こうして1つのチャプターが終わると何だかホッとします。まだまだ先は長いですが、着実に進んでいるなと思える日です。

 正平23/応安元(1368)年3月11日から天授5/康暦元(1379)年閏4月23日まで、細川頼之政権の運営ぶりを見てきました。
 この時代は、有力守護やそれと結びついた禅宗寺院が、旧勢力である荘園領主や旧寺社から実力で所領を奪い取る血なまぐさい時代でした。その戦乱を終わらせるべく細川頼之がとった「アメとムチ」政策は実に見事なものでした。頼之が守護や禅宗寺院に対して使い分けたアメとムチを振り返ってみましょう。
【アメ】
・私戦を起こした大内弘世を罷免せず許した。
・興福寺による十市遠康の討伐要求を無視した。
【ムチ】
・応安大法により守護の権限を縮小させた。
・比叡山の要求を容れて南禅寺の楼門を破却した。
・春屋妙葩の一派に属する全員の僧籍を剥奪した。
 こうしたバランスの取れた政策によって、守護の力は大いに割かれました。尊氏党と直義党の内紛は、守護が強力な動員力を持っていたからこそ起こっていたわけで、その財力が失われれば戦はやむわけです。頼之の政策こそが南北朝の動乱を終わらせる特効薬だったといえるでしょう。
 ところが、薄氷を踏むように慎重に事を進めていた頼之でさえも、斯波・渋川を始めとする反対勢力の前に敗れ去りました。巧妙にバランスを取っているつもりでも、全政策を牛耳っているとそれだけで反対勢力の嫉妬を買うこととなります。頼之政権に対して怒りを溜めてきた斯波派一同は遂に火を噴き、頼之追放に動きました。頼之にできたのは、全政策の責任を取って辞任することで、義満を無傷で済ませるということだけでした。
 義満はこの事件で大きな教訓を得ることとなりました。守護に権力を与えてはならないということ、また守護たちを連携させてはならないということです。これ以降、義満は守護を互いに争わせたり、内紛を誘発したりすることでその勢いを割き、その上に君臨して盤石な政権を築くのです。
 もう1点特筆すべきは蜜月ともいえる朝幕関係でしょう。朝廷と幕府がかくも良好な関係を築けたのは、幕府の財力を頼みにする二条良基の「抱きつき作戦」のおかげでした。この二条良基のしたたかな作戦は一見成功したように見えましたが、朝廷の存続をも揺るがすほどの大事件へと発展していきます。

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