日本人の物語00868【建武期】坊門清忠の愚策
瀬戸内海を東上する足利軍が兵庫(神戸市兵庫区)から上陸すると見込んだ新田義貞は、加古川を渡って兵庫へと向かいました。
一方、京にいた後醍醐天皇は、九州を制圧したという足利軍の兵力を恐れ、楠木正成にも兵庫に向かうよう指示しました。
このとき楠木正成は、天皇にこう進言しました。
「尊氏は九州を平定し、その軍勢を率いて上洛するようですから、相当な兵力でしょう。味方の軍勢は既に疲れ果てており、普通に勝負して勝てるとは思えません。ここは新田殿を京に召し返し、帝は新田殿とともに比叡山にお逃げいただくのがよいでしょう。私は河内に帰って兵を集めてから京に戻ります。すると尊氏は新田殿と私に挟み撃ちされることとなりますし、京で十分な兵糧を確保することもできないでしょうから、やがて自滅するでしょう。新田殿は兵庫で一戦交えなければ武士の恥だとお思いになるでしょうが、戦とは最後に勝たねば意味がありません」
実に正成らしい作戦です。赤坂城と千早城でのゲリラ戦術によって鎌倉幕府に大打撃を与えた正成は、武士らしい真っ向勝負では勝てない戦であっても、「少し戦ってはすぐに退き、敵を疲れさせる」といった戦略で見事勝利を手にすることができるのです。
この作戦には天皇もなるほどと納得しましたが、ここで公卿の坊門清忠が割って入り、次のように述べました。
「正成の申すこと、もっともではありますが、一戦もせぬうちに比叡山に移るとは、また一年に二度も移るとは、帝を軽んずる作戦ではないでしょうか。いかな尊氏が軍勢を率いて上洛するといっても、その勢いは前回のものと同程度でしょう。これまで負けずにいたのは武士の軍略が優れていたからではなく、ひとえに帝の御運が天命にかなっていたためです。この度も兵庫で合戦をして何の不都合があるのでしょうか」
いかにも戦ったことのない公家の意見です。これまで勝てていた理由は「帝の御運」であるなどと非科学的な精神論を述べており、勝利よりも天皇の体面を気にしているわけです。
後醍醐天皇がこの意見に頷くのを見た正成は、やむなく兵庫で尊氏と合戦することを決意し、延元元/建武3(1336)5月16日、兵庫に向けて出発しました。以上が『太平記』の記述です。
一方『梅松論』には、より驚くべきことが記されています。正成は
「新田義貞を誅伐し、その首を手土産に尊氏と和睦すべきです」
と天皇に奏上したというのです。その理由は「義貞には人望がないが、尊氏には徳があるからだ」といいます。これは一笑のもとに却下されたそうです。
太平記と梅松論、いずれが真実なのか分かりませんが、いずれにせよ正成は悲痛な決意のもとに兵庫へと向かいます。
