日本人の物語01427【三山】察度王朝
「何の努力もしてないのに成功する」という昔話(神話?)はなかなか珍しいですね。
察度と眞鍋樽は結婚し同居を開始しますが、察度の家は垣根が破れて風が吹き抜けるありさまでした。数日経って、眞鍋樽がふと柴を炊く器にかぶさった灰や炭を払ってみると、なんと黄金でできた器であることが分かりました。眞鍋樽が
「これは金ではありませんか。なぜ柴を炊く器などにしているのですか」
と尋ねますが、察度は
「これが金とは知らなかった。うちの田畑にこれは山ほどあるぞ」
と言います。二人で見に行くと、確かに田畑には金銀がいっぱい積み上げられていました。
眞鍋樽は父から人夫を借りて金銀を積み下ろし、蔵に収納しました。このため、察度の居宅跡(沖縄県宜野湾市大謝名)は「黄金森グスク」と呼ばれています。
察度と眞鍋樽は元々物欲があまりない夫婦だったようです。二人はこの金銀を売って鉄を買い、その鉄で作った農具を周囲の者に次々と配っていきました。それまで木の農具で作業をしていた農民たちの収穫力は格段に上がりました。
琉球では鉄は採れず、本州や中国からの輸入に頼っていたようですが、なかなかの高級品だったようです。この伝説では察度は最初から金や銀に囲まれて生活していたというご都合主義のストーリーとなっており、一体どこまでが史実なのか定かではありません。
さらに二人は、飢えた者には食べ物を与え、着る物のない者には着物を与えたため、多くの民から慕われました。やがて察度は民から推挙され、浦添按司となります。
そして英祖王朝5代国王・西威が21歳で崩御すると、人々は浦添按司の察度を支持し、1350年、察度が中山王となりました。察度王朝の始まりです。
この王朝の都は浦添にあったと考えられていますが、察度が首里に遷都したとの伝説もあり、はっきり分かっていません。
察度は弟の泰期(たいき)を明に派遣して朝貢を開始し、金印を授与されるほどになりましたが、この頃、北山王の怕尼芝も、南山王の承察度も、平行して明への朝貢を行うようになりました。これ以降、琉球では明の元号が用いられます。
その後、察度は傲慢な人間になってしまい、遊覧のために高い楼閣を作ったといいます。ある日、この楼閣に登って
「余がこの楼にいれば、ハブも噛みつけないだろう」
と述べたところ、その日の夜にハブが察度の左手に噛みつきました。患部はひどく腫れ、察度は左手を切断する羽目になったのです。側近の者が
「主君に左手がなければ不便でしょう。私の手を差し上げます」
と言って、左手を切って献上したため、察度はこの手をつないで使ったというのですが、あまりに突飛な話です。
洪武28(1395)年10月5日。察度は74歳で崩御しました。
何の努力もせずに成功したので、その報いを受けた、ということなんでしょうか。
