日本人の物語00352【平安中期】刀伊の入寇
寛仁2(1018)年3月。後一条天皇が元服しました。
この年、道長の娘・威子(たけこ:1000~1036)が女御として入内しました。天皇9歳に対して威子は18歳。ちょっと年上過ぎる気もしますね。ほぼ時を同じくして、皇太后彰子は太皇太后に、中宮妍子は皇太后に、女御威子は中宮に、それぞれ立后がなされました。
実に道長の子3人が后となったわけで、藤原実資は日記『小右記』に「一家立三后、未曾有なり」と記載しています。
威子が立后された日には、道長邸で祝宴が開かれました。この祝宴で、道長はあの有名な歌を詠みます。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
道長は実資に返歌を求めますが、実資は「このようなすばらしい歌に返歌はできない」と述べ、実資の提案によってその場にいた一同がこの歌を詠唱しました。しかし実際には、実資は道長の自慢気な態度に呆れていたと思われます。
さて、翌寛仁3(1019)年3月27日、時ならぬ外患問題が発生します。
50艘の船が対馬・壱岐に上陸し、壱岐守・藤原理忠(ふじわらのまさただ:?~1019)を殺害の上、民家を焼き討ちして略奪しました。さらに賊は博多湾から九州に上陸し、民家を襲撃し、そのまま湾内の能古島を不法占拠してしまいます。対馬で殺害された人が18人、壱岐で殺害された人が148人と報告されていますから、ものすごい規模の略奪です。
このとき、九州に左遷され大宰権帥を務めていたのがあの暴れん坊、藤原隆家でした。花山法皇に矢を射かけて左遷されたあの隆家です。
賊は翌週、九州に再び上陸しようとしますが、隆家はなんと、貴族でありながらこれを最前線で指揮し、迎え討ち、見事な指揮ぶりで撃退しました。捕虜とした高麗人を取り調べたところ、「賊は刀伊(女真族:現在の満州民族)であり、我々高麗人は脅迫されやむなく従っている」との供述でした。
この事件を「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」といいます。
この隆家の功績に対し、政府は何らの恩賞も与えませんでした。左遷された先で大活躍した隆家でしたが、その後も特段の位階を得ることなく死去します。
さて、寛仁3(1019)年といえば、頼通が関白に就任し、道長は出家した年です。翌寛仁4(1020)年は、道長が無量寿院(後の法成寺)を建設し、そろそろ本格的に仏門に入って隠居しようと考えていた時期となります。もはや最高の権力を保持した今、これ以上なすべきことはなかったのでしょう。刀伊の入寇でも、何らのリーダーシップを発揮した形跡はありません。
ちなみに法成寺といえば、能の演目として有名ですね。演じるのが特に難しい演目とされ、「能楽師の卒業論文」などと呼ばれることもあります。ただし、残念ながらこの寺院は現存しません。
