日本人の物語00444【平安後期】81代安徳天皇
後白河法皇は、これ以降半年間に渡って鳥羽殿に幽閉されることとなります。
幽閉中の後白河は、悲しみに暮れて何もできずに過ごしたのかというと、決してそうではありません。政治から距離を置き、趣味の今様(いまよう)に没頭し始めるのです。
今様とは、庶民の間で流行した歌のことで、今でいうポップスのようなものです。後白河は今様を研究し尽くしてそれを記録に残し、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』と呼ばれる歌集を編纂するという後世に残る文化事業を成し遂げたのでした。この切り替えの早さはまさに天才的と言わざるを得ません。
梁塵秘抄の中でも最も有名なのが、
遊びをせむとや生まれけむ
戯れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
わが身さへこそ揺るがるれ
という歌でしょう。後白河の権力闘争もまた、子供の遊びのような無邪気な気持ちで行われたものだったように思えてなりません。
さて、クーデターから3ヶ月後、清盛は早くも最高権力者として自在に振る舞い始めます。
治承4(1180)年2月21日、清盛は高倉天皇に譲位を迫り、1歳3ヶ月の言仁親王を即位させました。この僅か5年後に平家と運命を共にする悲劇の少年・安徳天皇です。
この譲位の日、高倉上皇は、最初の社参を厳島神社とする旨を発表しました。厳島神社というと、平清盛が復興させた平家の神社です。
本来、上皇になって最初の社参は、石清水八幡宮、賀茂社、春日社、日吉社のいずれかから選ばれるのが伝統でした。高倉上皇の社参先についてまでも自在に決定権を差配する清盛の強引さに、公卿らのみならず有力寺社たちまでもが反発を覚えました。
3月20日には、高倉上皇が福原の清盛邸を訪れました。厳島に向かう前に、まずは福原に立ち寄ったのです。そのための厳島参詣だったのかと公卿たちは憤りました。天皇や上皇を軽々しく自邸に招くとは、なんとも不遜な発想です。
高倉上皇は3月26日に福原から船に乗り、瀬戸内海を西上し、厳島への参詣を行いました。そして4月9日に帰洛します。
この4月9日こそ、後に「以仁王の令旨」と呼ばれる平家打倒の第一声が挙げられた日なのですが、ここからは章を改めて詳述していきます。平家の全盛と安徳天皇の即位をもって、「平安後期」の稿を閉じたいと思います。
