見出し画像

日本人の物語00522【鎌倉初期】梶原景時の讒言

 さて、平家軍を見事全滅させた義経の功績は喝采を浴びますが、問題は「三種の神器を持ち帰る」というミッションを果たせなかったことでした。八咫の鏡と八尺瓊の勾玉は持参しましたが、草薙の剣が最後まで見つからなかったのです。
 剣が失われたことについて、藤原忠通の子にして天台座主を務めた慈円は、その著書『愚管抄』において「道理のある出来事であろう」と述べています。つまり、天皇は文武の2道において国家を統治する存在であるところ、天皇の持つ草薙の剣は、そこに天皇の祖先が乗り移って武道によって天皇を守るためのものでした。今や、武家の棟梁が存在して天皇を護持する役割を担っていることから、草薙の剣はその役割を終えたのだというのです。
 「何事にも道理があるのだ」という歴史観を持った慈円ならではの考え方ですが、そうとでも考えない限り、三種の神器の一角を失ったショックを紛らわすことができなかったのでしょう。
 剣は最後まで見つからずじまいで、やむなく後白河法皇は伊勢神宮から新たな剣を取り寄せ、それを草薙の剣としました。2代目の剣というわけです。
 さて、三種の神器が回収できなかったことは、大いに頼朝の怒りを買いました。頼朝にとっては、神器を返還することが朝廷に最大級の恩義を売ることのできる手段でしたし、戦闘のさなかに神器を失ったことは源平両者の責任問題にもなり得ることだったからです。
 義経にとってさらに悪いことに、参謀役であった梶原景時が頼朝に義経の悪口を書き送ります。景時によると、
・義経は平家追討の功績は自分一人に帰するものと思っている。
・義経は兵たちに無理を強いており、兵からも快く思われていない。
・道理に反した行動が目立ち、私(景時)が諫めようとしても聞かず、かえって私が罰されるおそれがある。
などなど、義経の振る舞いには問題があるというのです。頼朝が激怒したため、義経は使いを出して弁明しますが、頼朝の怒りは収まりません。
 そんな中、鎌倉から
「捕虜となった平宗盛・清宗父子を鎌倉まで護送せよ」
との指令が来ました。義経は、今こそ頼朝と直接対面して弁明する機会だと考え、自ら宗盛・清宗父子の護送の役を買って出ました。
 しかし義経の考えは甘かったようです。頼朝はもはや義経との謁見すら許さないというほどに怒っていたのです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集