日本人の物語00410【平安後期】保元の乱 戦闘開始
保元元(1156)年7月11日未明。先に動いたのは、後白河方でした。
信西の采配により、先鋒は平清盛、次鋒は源義朝が務めました。先駆けの功を取って活躍を見せたかった義朝は、ひどく悔しがりました。
清盛・義朝らは白河北殿を奇襲します。突然の夜襲に頼長は驚き、狼狽しますが、為朝は「それ見たことか」と思ったことでしょう。
敵襲を知った為義の子ら6人が、先陣を競うようにして戦闘を開始しました。為義の四男・頼賢が、
「最も年長の私が先陣を務めるのが当然だ」
と言いますが、為朝は先陣争いなど馬鹿らしいと思っていたらしく、
「誰が先陣を切っても良い。劣勢になったときは私を頼ってくだされ」
と自信満々に言ってのけます。
頼賢が先陣を切り、義朝軍と激突しました。源氏同士の戦いです。
頼賢が義朝軍の数人を射て退くと、義朝はこれを追おうとします。義朝の家人の中に、鎌田正清(かまたまさきよ:1123~1160)という侍大将がいたのですが、この鎌田が
「大将は深く切り込んではなりません」
と義朝を諭します。
しかし、義朝は鎌田の指示も聞かず、なおも駆け出したため、鎌田が指示して義朝の前後左右を家人らで取り囲み、大将を守りました。義朝の戦意はあまりに高く、周囲に危うさを感じさせるほどだったようです。
一方、西門では清盛軍が為朝軍と激突していました。
前述のとおり、為朝は伝説的な弓の使い手です。為朝の放つ矢が人を貫通して後ろの者にも当たり、次々と倒れていきます。清盛軍の家人が
「鎧を4重、5重に着なければ兵が尽きてしまいます。引き返してはどうでしょう」
と清盛に具申しますが、ここで清盛の長男・重盛(しげもり:1138~1179)は
「何をいうか。私が受けてみせよう」
と気丈にも為朝と真正面から戦おうとしました。戦意旺盛です。
清盛は重盛を止め、
「不運にも西門で強敵に当たってしまったが、西門を攻めよと命令されたわけではない。別の場所から攻めようではないか」
と言って、一旦退却し、別の門に回り込むことになりました。清盛はさすがに冷静でした。
