日本人の物語00753【鎌倉末期】桜山茲俊の決起
少し時間は遡りますが、元弘元/元徳3(1331)年9月14日、桜山城(広島県福山市)にて桜山茲俊が決起しました。ここで桜山の動きを見ていきましょう。
桜山茲俊は、幕府打倒の兵が次々と上がったことを知り、一族を挙げて決起しました。そこへ幕府に不満を持つ地元土着の豪族が次々と集まり、700騎余りとなりました。この反乱軍は備後国(広島県東部)の半分を制圧したといいます。
桜山軍はさほど大規模な軍勢ではありませんが、このようなゲリラ的決起は幕府を大いに苦しめたと推察されます。というのも、笠置山、下赤坂城、桜山城のような要害は、多数の兵を擁しておくには小さすぎる山ですが、少数の兵で多数の敵を困らせることが可能です。こうした場所に反乱軍を分散配置しておくことで、幕府方は兵を分けて対応しなければならないわけです。楠木正成が一度は笠置山に赴いて後醍醐天皇に謁見したにもかかわらず、その後笠置山とは別の場所で決起したのはこうした理由からでした。
桜山茲俊が後醍醐天皇や楠木正成に合流することなく、地元で決起したことは、天皇側からの指示によるものかもしれません。
桜山軍が備後国を制圧し、次は備中(岡山県西部)か安芸(広島県西部)かと思案していたところに、
「笠置城も下赤坂城も陥落し、楠木正成は自害した」
との知らせが聞こえて来ました。実際には楠木正成は生きていたのですが、そんなこととは知らない兵たちは、徐々に勝ち目がないと見切って桜山軍から離反していきます。
遂に、常に行動を共にしてきた桜山一族の20人余りが残るだけとなり、桜山茲俊は覚悟を固めました。
「幕府が政権を掌握し、全国くまなく厳しく統治している中、逃亡したとしても、身を隠す場所はない。親族であっても上手く隠し通すことはできないだろうし、疎遠な者にはなおさら身を託すこともできない。人手にかかって屍をさらすよりは潔く自害しよう」
といって、備後国一宮(広島県福山市)にて8歳の子と27歳になる妻を刺し殺して、社殿に火を懸け、自身も腹を掻き切って、一族郎党23人、全員で自害したといいます。元弘2/元徳4(1332)年1月21日のことでした。
奈良時代に創建された一宮の社殿に火をかけるとは何とも罰当たりに思えますが、実は桜山茲俊はこの一宮に深く帰依しており、どうにか社殿を再建したいと夢見て挙兵したのでした。あえて放火したのは、自分の遺志を継ぐ者に再建させたいと考えたためです。
その後、備後一宮は「吉備津神社」という名で再建されました。現在、吉備津神社のすぐそばに、桜山茲俊を祀る「桜山神社」も建てられています。
