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日本人の物語00481【平安末期】平家都落ち 忠度と頼盛

 続いては、平家都落ちに当たっての、忠度のエピソードを紹介しましょう。
 清盛の弟にあたる平忠度(たいらのただのり:1144~1184)は、和歌に傾倒していましたが、なかなか歌人として名が売れていませんでした。忠度は都落ちに当たって、歌の師である藤原俊成(ふじわらのとしなり:1114~1204)を訪ね、百余首の書き付けを託しました。つまり、「自ら詠んだ歌をいつか後世に発表してほしい」と訴えたのです。
 なお、俊成は藤原定家の父としても知られています。俊成・定家は2代連続で当代一の歌人として知られていたわけです。定家が編纂した百人一首には、俊成の歌として
「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」
が選ばれています。
 さて、平忠度の依頼を受けた俊成は、後に千載和歌集を編纂する際、忠度の歌の中から
「さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな」
(琵琶湖にさざ波が立っている。志賀の都は荒廃してしまったが、長等の山桜は昔と同じように美しく咲いている)
を選出しました。「昔ながら」という言葉と「長等(ながら)」という地名を掛けたなかなかの名歌です。
 しかし俊成は、源氏全盛の世の中で平家の罪人の歌をそのまま載せるわけにもいかず、やむなく「詠み人しらず」としての掲載にとどめることとなりました。
 能『忠度』では、忠度の霊が俊成の子である藤原定家の前に現れて、
「私の名を載せてほしい」
と訴えるというストーリーになっています。
 ちなみに後世に定家が編纂した新勅撰和歌集にはちゃんと平忠度の名が載っており、優れた歌人であったことが現代にまで伝えられています。このとき俊成に託したのは正解だったといえるでしょう。
 経正と忠度の感動エピソードを紹介した後、平家物語は平頼盛のあさましいエピソードを紹介しています。都落ちのさなか、頼盛は「忘れ物をした」と言って都に戻り始めたというのです。
 頼盛とは清盛の弟であり、清盛とは険悪な仲で知られていました。平治の乱のとき、頼盛の母・池禅尼が頼朝を助命してあげたという過去の経緯もあるため、おそらく頼盛は都に残っても殺されずに済むはずです。頼盛はそれを予期して、平家を裏切ることとしたのです。
 兵が宗盛に「頼盛殿に矢を射かけましょう」と提案しますが、宗盛は「不届きな者だが放っておけ」と指示し、頼盛は誰からも咎められることなく平家一行から離脱しました。事実、頼盛はのちに頼朝に謁見し、旧領を安堵されることになるのです。

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