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日本人の物語00729【鎌倉後期】正中の変 日野資朝の無礼講

 後醍醐天皇がいつ頃から倒幕を意識し始めたのか定かではありませんが、『太平記』によると元亨2(1322)年頃からだといいます。
 『太平記』には、
「天皇側近の日野俊基が蔵人としての仕事に追われ、倒幕の計画を練る時間が取れないため、一計を案じて出勤しないようにした」
との逸話が記されています。
 具体的にはこんなお話です。ちょうど比叡山の僧兵が願状を掲げて朝廷に訴えを起こし、俊基はその願状を読み上げる役目を担ったのですが、楞厳院(りょうごんいん)という延暦寺の境内にある塔の名を「まんごんいん」と読んでしまいました。その場に列席していた公卿たちは
「つくりに『万』の字があったからマンと読んだのだろう。ならば『相』の字はへんもつくりもモクであるから、モクと読むのだろうか」
などと言って笑い合いました。俊基はこれを恥として、翌日から家に引き籠もり出勤しなくなりました。
 ところが、これは俊基が時間を作るための芝居でした。
 俊基は山伏に姿を変え、半年ほどかけて諸国を回って情報収集し、幕府打倒の際にどの豪族が味方をしてくれるかを見極めに行ったのです。なかなかの策士です。
 一方、日野資朝の方も負けてはいません。
 資朝は、美濃の御家人・土岐頼有(ときよりあり:?~1324)、多治見国長(たじみくになが:?~1324)を倒幕計画に引き入れます。彼らが真に味方になってくれるか試すため、資朝は「無礼講」と称して、身分の上下の区別のない宴会を催しました。公家たちは烏帽子を脱いで髻(もとどり)をあらわにし、僧は法衣を着ずに簡素な白衣を着て、酌をする女性は薄着で、皆で音楽に合わせて踊ったといいます。
 こうした宴会を催すことで相手の本音を引き出し、より親密になって裏切られないようにしたのでしょう。
 ちなみに現代においても身分の上下を気にせず宴会を行うことを「無礼講」といいますが、歴史上初めて「無礼講」が史料に載ったのは日野資朝が主催したものです。
 後醍醐天皇と側近2名が様々に工夫を凝らして練り上げた倒幕計画でしたが、実行の前にこの計画は漏れてしまいます。

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