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日本人の物語01673【室町/西国/六角征伐】六角攻め再び

義材の政治手腕は、義尚に比べるといろいろ考えているように見えますが、まだ子供っぽい気がします。

 10代将軍義材は、細川政元が自分と距離を置こうとしているのを感じ取ったのか、細川家のライバルである畠山家に接近します。つまり畠山政長を重用したのです。
 政長にとっては、宿敵義就が死去したものの、その息子の義豊との戦いが継続しています。将軍に気に入られることで、この戦いを有利に進めたいとの目論見もあったでしょう。
 延徳3(1491)年8月2日には、政長の申請に応じて義材が畠山義豊討伐の奉書を発しました。政長は大いに喜び、将軍自ら軍を率いて鎮圧してほしいと願い出ましたが、義材には先につぶしておかねばならない相手がいました。六角高頼です。
 六角高頼は、9代将軍義尚が政治生命をかけて倒そうとした相手でしたが、義尚の死後に所領の返還を条件に赦免されていました。ところがその返還が全く進んでおらず、幕府から詰問したところ高頼は「現地が言うことを聞きません」と述べて隠居する始末でした。幕府を小馬鹿にした対応です。
 8月中に義材は、前将軍の遺志を継ぐとして六角征伐のため大軍勢を率いて出陣しました。二度目の六角征伐の始まりです。
 六角高頼と強固な同盟で結ばれていた美濃守護・土岐成頼は、次男(名前不明)を六角家の養子に出していましたが、この二度目の征伐に先立って密かに近江を訪れ、次男に「最悪の場合は自害せよ」と伝えました。土岐家は六角と心中するつもりで幕府と敵対していたのです。
 義材ら幕府軍は園城寺光浄院(滋賀県大津市)に布陣し、一方の六角高頼は金剛寺(滋賀県近江八幡市)に立て籠もります。
 緒戦で六角方は敗れ、例によって甲賀山中に逃亡して抵抗を続けました。前回の義尚による六角征伐では、この山中まで侵攻するのが難しく、持久戦になったのでしたね。
 しかし義材はあくまで急戦で敵を殲滅するべく、甲賀山中に兵を派遣し徹底的に叩かせました。
 11月18日。六角家家臣の山内政綱(やまうちまさつな:?~1491)は三井寺に投降してきましたが、義材はこれを許さず誅殺しました。そして六角一味を近江から追放するべく、細川政元を近江守護に、安富元家を近江守護代に任じました。これまで六角の味方をしていた土岐家も、斎藤妙純の説得を受けて遂に同盟破棄を決意しました。
 こうして六角家は近江から駆逐されたのですが、翌延徳4(1492)年3月には安富元家が守る金剛寺城を奇襲し、奪回に成功するなど粘りを見せます。改元後の明応元(1492)年9月に幕府軍はやっと金剛寺城を再奪回し、10月17日に甲賀に籠もっていた六角高頼を破りました。高頼は12月には伊勢に逃亡していきました。
 12月14日。義材は近江を平定して京都に凱旋しました。義材は「これで強い将軍になれた。守護たちに侮られることはなくなった」と慢心していたことでしょう。

平定といっても、肝心の六角高頼はまだ生きていて、今後もまだまだ登場するんですけどね。

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