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日本人の物語01437【第一尚氏】護佐丸登場

本州の歴史で「〇〇・△△の乱」というふうに、2人の人名を並べたものは何かあったでしょうか。どうも思いつきません。琉球の歴史ではかくも密接して、「志魯・布里の乱」と「護佐丸・阿麻和利の乱」が起こるんですがね・・・。

 6代国王・尚泰久の時代には、更に大規模な戦乱が起こります。「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれる戦乱ですが、まずは護佐丸(ごさまる:1393?~1458)のプロフィールから説明していきましょう。
 護佐丸は山田城(沖縄県恩納村)の城主の跡取りとして誕生しました。その頃、山田城を含む沖縄本島北部を支配していたのは、北山王の攀安知でした。
 護佐丸の曽祖父は、かつて今帰仁按司を務めていましたが、攀安知の祖父・怕尼芝が武力で今帰仁按司の座を奪ったとされ、護佐丸と攀安知は因縁の間柄でした。
 そうした理由もあって、尚巴志が北山王国の攀安知を討伐した際、護佐丸は800騎あまりの兵を率いてこれに参加しました。尚巴志が今帰仁城を正面から攻めたのに対して、護佐丸は険しい山を越えて背後から城を襲い、大活躍したのです。
 この功績が認められ、尚巴志は次男・尚忠を北山監守として今帰仁城に残した際、護佐丸をその補佐役としました。それほど尚巴志から信頼されていたのでしょう。
 護佐丸は自らの拠点を山田城から移し、新たに座喜味城(沖縄県読谷村)を築きました。石作りの美しいアーチで有名な、世界遺産に登録される名城です。この座喜味城の建設に当たっては、山田城の城壁を崩して石を再利用したほか、奄美諸島、慶良間諸島からも人を集めて作業させたらしく、護佐丸の影響力の大きさが分かります。
 城が築造された後、護佐丸は城下の長浜港を使って盛んに貿易を行いました。座喜味城は首里に並ぶほど栄えたといいます。
 しかし座喜味城完成から10年ほど経ったところで、尚巴志は護佐丸に中城(なかぐすく:沖縄県中城村)への配置替えを命じました。勝連城(かつれんじょう:沖縄県うるま市)を拠点とする勝連按司・阿麻和利(あまわり:?~1458)が反逆するおそれがあり、その牽制のためには勝連と首里を結ぶ位置にある中城に、信頼できる護佐丸を配置したかったものと考えられます。
 一方、逆の見方もあるようです。尚巴志は座喜味城でぐんぐんと力をつけていく護佐丸を警戒し、配置替えによって力を弱めたかったという説です。
 いずれにせよ護佐丸は中城に移り、中城を改築しました。これまた石のアーチが有名で、世界遺産に登録されています。建てた城が2つとも世界遺産に選ばれるとは、護佐丸は余程の築城の名手だったようです。
 護佐丸は中城に移った後も、屋宜港(やぎこう)を使って積極的に交易を行いました。
 これほどの忠臣であったはずの護佐丸に、悲劇が訪れます。

ちなみに阿麻和利を主人公とする琉球放送の「琉球歴史ドラマ」もありました。Amazonプライムで見られます。

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