日本人の物語01163【南北朝後期】武蔵平一揆の乱
まだまだ戦乱が絶えず、あと20年で南北朝時代が終わるとは思えない状況ですね。
正平23/貞治7(1368)年1月25日。関東執事の上杉憲顕が鎌倉から上洛して来ました。将軍義詮の死を弔うため、鎌倉公方・氏満の名代としてやって来たのでしょう。2月8日には将軍御所に参上し、義満の将軍継嗣を祝賀したようです。
基氏と義詮、室町幕府の重鎮2人が相次いで死去し、さらに東国の実力者・上杉憲顕が上洛している隙を狙って、またもや大々的な反逆事件が発生します。
北朝が貞治から応安へと改元した直後の正平23/応安元(1368)年2月24日、幕府に帰順していたはずの桃井直常が、無断で越中に出奔しました。直常が幕府に帰順していた期間は僅か9ヶ月間でした。幕府は直常の弟・直信を越中守護に任命していましたが、桃井兄弟の離反を知って越中守護を斯波義将に交代させました。
このあたりは因果関係がよく分かっていません。もしかすると因果関係は逆で、
「越中守護を桃井直信から斯波義将に交代させる」
と聞いた桃井直常が激怒して出奔したのかもしれません。
いずれにせよ、桃井を重用すれば斯波が納得せず、斯波を重用すれば桃井が納得せず、幕府は難しい舵取りを強いられているようです。
さらに2月25日には、武蔵国で平一揆が決起しました。「平一揆」とは武蔵・相模・伊豆の国人たちの軍勢で、畠山討伐の時点では基氏率いる鎌倉府に従っていたものの(01134回参照)、憲顕の登用に不満を抱いた者たちです。この決起を「武蔵平一揆の乱」といいます。
平一揆の面々は、
・河越館(埼玉県川越市)を拠点とする河越直重
・宇都宮城(栃木県宇都宮市)を拠点とする宇都宮氏綱
たち、つまり薩埵山体制を形成する武将たちでした。
薩埵山体制とは直義党を放逐した上で作られた体制ですから、当然尊氏党の面々で構成されています。彼らにとって、基氏が上杉憲顕を登用したことは旧直義党の復活にほかならず、猛反対するのは当たり前でした。
これに越後を拠点とする新田義宗・脇屋義治など南朝勢も加わり、平一揆の乱は大々的な反乱に発展していきました。明らかに憲顕の不在を狙ったタイミングでの挙兵でした。
反乱発生を知った憲顕ですが、すぐに東国に戻ることができません。かといって、8歳の鎌倉公方・氏満がリーダーシップを発揮できるわけもありません。当時鎌倉にいたメンバーの中では、下向したばかりの佐々木道誉が大物ですが、不思議と動いた形跡がありません。そこで、憲顕の甥・上杉朝房の手腕が期待されることとなります。
朝房は幼少の氏満を連れて河越へ出陣し、河越直重らと戦うことになるのですが、その戦いの詳細は次章で説明することとなるでしょう。
ともあれ、義満と細川頼之の新政権は、早くも大きな障害に出会ったといえそうです。
