見出し画像

日本人の物語00471【平安末期】高倉上皇と平清盛死去

 治承5(1181)年1月13日。高倉上皇の病状が悪化し、危篤となりました。崩御となれば、2歳の安徳天皇が政務をみるのは不可能ですから、当然に後白河法皇による院政が再開することとなります。それを予期した清盛は徳子に対し、
「高倉上皇崩御の際には、後白河法皇に入侍せよ」
と迫りました。
 後白河法皇に取り入る必要があるのは分かりますが、夫を亡くそうとしている妻に対してあまりにひどい言いようです。徳子は
「そんなことをするくらいなら今すぐ出家します」
とまで言って、強く拒絶しました。
 その翌14日。高倉上皇は19歳の若さで崩御しました。平家にとって大いに味方となってくれた実力者が不在となり、残ったのは老獪な後白河法皇です。清盛はやむなく、七女・御子姫君(みこのひめぎみ:1164?~1181?)を選び、1月25日に後白河法皇の後宮に入れましたが、後白河法皇は御子姫君をさほど寵愛しなかったようです。二人の間に子が産まれることもありませんでした。
 2月22日、清盛は頭痛を発症します。徐々に熱が上がり、「かけた水が蒸発してしまうほどだった」という大袈裟な伝説も残っています。
 そして閏2月4日、清盛は遂に死去しました。遺言は、
「葬式は不要である。それよりも頼朝の首を私の墓前に掲げよ」
でした。最高の理解者だった高倉上皇を失った上、頼朝による反乱を鎮圧することができないまま死ぬのが最大の心残りだったのでしょう。
 平家物語では、他の登場人物が死ぬ場面では念仏を唱える描写が多いのに対し、清盛の死の場面ではこの「頼朝の首を……」という遺言だけが記されています。「死に瀕して念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えがあるのに、清盛はそれを忘れてただ敵の死を願ってしまったわけで、つまり「清盛は極楽に行けなかった」と平家物語は訴えているのでしょう。
 清盛が死んだその日、後白河法皇は今様を乱舞したと記録されています。政敵の死を喜んだのでしょうが、あまりに露骨で子供っぽい所業です。
 これで名実ともに宗盛が平家のトップに立つこととなりました。しかし宗盛は清盛に比べてその政治力も統率力も大きく見劣りする人間でした。清盛の死から数日後に、宗盛は後白河法皇に対し、
「これまで父の専制を止められなかった。これからは法皇のご指導に従いたい」
と謝罪したといいます。この時点で既に格の違いが表れているといえますし、後白河は
「清盛は御しがたい人物だったが、宗盛なら思い通りに動かせる」
とほくそ笑んだものと思われます。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集