日本人の物語01283【室町/義持期】義持の人事
足利義持という人物は、一度でも俳優によって演じられたことがあるのでしょうか。テレビドラマ、映画、舞台演劇も含めて調べてみましたが、どうも一度もない気がします。
応永15(1408)年8月16日。義満の百日忌が行われましたが、義持は布施を省略し儀式を簡素化しました。倹約志向の義持らしい指示ですが、義満への反発も多分に含まれている気がします。
そして義持は、義満が恣意的に行った人事を次々と撤回していきました。畠山満慶(はたけやまみつよし:?~1432)と奥御賀丸(おくおんがまる)がその例です。
かつて畠山基国は管領として権勢を誇っていましたが、応永13(1406)年に亡くなりました。本来ならば長男の満家が家督を継ぐはずでしたが、満家はなぜか義満に疎まれて蟄居させられ、次男の満慶が家督と河内・紀伊・越中・能登4ヶ国の守護職を継ぎました。
義満が死去すると、義持は満慶に対し、兄満家に家督を返すよう命令しました。ただし、領国4ヶ国全てを取り上げるのはさすがにやり過ぎと思ったのか、能登だけは引き続き満慶が領することとなりました。これが「能登畠山氏」の始まりです。
畠山満慶の肖像画の賛文では、あたかも弟が自発的に兄に家督と4ヶ国を返却し、兄は自発的に能登だけを弟に戻してあげたかのように書かれ、「天下の義挙」などと褒め称えていますが、実際には義持主導で行われた人事のようです。
奥御賀丸に至っては、義満に仕える侍童に過ぎない僧であり、言わば社長の自宅の家事手伝いのような立場でしたが、義満に可愛がられ和泉守護に補任されるに至りました。これまた義満が死ぬと和泉守護職は取り上げられ、細川家に下賜されました。奥御賀丸は完全に没落したのです。
10月8日。義持は
「公家関係は裏松重光が、武家関係は伊勢貞行が取り次ぐように」
と指示しました。裏松家は日野家の庶流で、言わば公家の中の武家窓口に当たり、将軍家の御台所(正室)を次々と輩出し、室町中期に実権を握る家柄です。一方、伊勢家は武家であり、将軍と守護をつなぐ秘書室長のような存在で、また将軍家嫡男の養育係でもあります。これまた室町中期には巨大な権限を握る家です。
してみると、義持は義満の身内重視人事に反発を覚え、父の人事を次々と撤回していたものの、義持自身が公正な人間というわけではないようです。義持もまた、妻の実家と自身の養育係を重用しているのですから。
裏松家(日野家)と伊勢家は、「将軍の妻の実家」と「将軍の幼時の養育係」という点で、初期鎌倉幕府の北条家や比企家に似ているかもしれません。ただ、他の有力守護も数多くいるので、彼らが幕府を牛耳ったとまでは評価できないと思われます。
この連載を始めたせいで、他の趣味やら自己研鑽に費やす時間がほとんどなくなってしまいました。本当は勉強した方が良いものがいろいろとあるのですが・・・。
