日本人の物語00420【平安後期】平治の乱 上皇と天皇の幽閉
平治元(1159)年12月9日。信頼は三条東殿にいた後白河上皇に対し、
「私を討とうとする者がいるので東国に逃げようと思っています。私を哀れと思うなら、どうかご一緒していただきたい」
と訴えました。後白河は訝りながらもこれに同意し、信頼の言う通りに輿に乗せられました。同様に、信頼は二条天皇をも連れ出します。
信頼が後白河と二条を連れて行った先は、一本御書所(いっぽんのごしょどころ)という書籍を所蔵しておく場所でした。信頼はそのまま二人を幽閉し、
「上皇と天皇の意志である」
と言って自分の好き勝手に命令を下し始めます。
まず信頼は源義朝・頼政に命じて、信西の館と三条東殿を襲撃しました。三条東殿は後白河の御所ですから、信西派の公卿や兵たちが大勢いました。後白河を安全なところに避難させた上で、その三条東殿を襲撃したというわけです。
信西は、すんでのところで館を抜け出し、山城国田原(京都府宇治田原町)に逃れました。義朝は追っ手を派遣し、信西の捜索に当たらせます。
12月10日。熊野に来ていた清盛は、早馬の知らせで信頼の挙兵を知りました。急いで戻らねばなりませんが、清盛はハタと
「軍装がない」
と呟きます。このまま京に戻る途上で襲われる可能性もあるのに、平服で乗馬して京に戻ろうとしたのでは、簡単に討ち取られてしまいます。
このとき、先々代の頃から平家にずっと仕えていた家人・平家貞(たいらのいえさだ:1082~1167)が
「軍装は私の一存で持参しておりました」
と言って、一同の軍装を運んで来ました。さすが家人筆頭の家貞、用意周到です。
こうして熊野にいた平家は、滞在を切り上げて急ぎ都に戻ることとなりました。
その途上、阿倍野(大阪市阿倍野区)で、義朝の長男・義平(よしひら:1140~1160)が待ち構えているとの情報が入りました。義平は義朝が東国で活躍していた頃、義朝を支えた中心人物で、その勇猛果敢さから「悪源太(あくげんた)」の名で恐れられていました。悪源太とは「強い源氏の長男」といった意味でしょうか。
平家方は軍装はしているものの、戦闘の準備は不十分です。あの悪源太に襲撃されて無事で済むかどうか分かりません。
重盛は「討死覚悟で戦うべきです」と主張しましたが、清盛がこれを止め、阿倍野を迂回することとなりました。清盛はこんなときでもやはり冷静です。
