日本人の物語00375【平安後期】後三年の役 源義家の介入
吉彦秀武が怒って勝手に帰ってしまったことに対し、実衡はこれを反逆とみなし、討伐の兵をあげ、出羽に向かいました。つまらないことで行動をエスカレートさせてしまう人は、いつの時代にもいるものです。
吉彦秀武はこれに対抗するため、清衡と家衡に出兵を要請しました。2人がかねてより真衡に反感を抱いていたことを知っていたのでしょう。
清衡と家衡は奇襲作戦に打って出ます。真衡が出羽へ向かっている間に、真衡の居館を襲撃したのです。それを知った真衡は慌てて自邸に引き返しますが、清衡と家衡は既に逃亡した後でした。怒りに震えた真衡は、自邸で清衡・家衡・秀武を討つための準備を整えます。
さて、このように清原家が内紛で慌ただしい中に、源義家が介入してきます。
義家は、父・頼義とともに前九年の役を鎮圧して名を上げた人物ですが、さらに承暦3(1079)年には美濃で内乱を起こした源重宗(みなもとのしげむね)を追討し、永保3(1083)年には陸奥守に就任していました。ちなみにこのとき、既に頼義は死去していますから、義家こそが源氏一族の長ということになります。
真衡が吉彦秀武を討つべく再び出羽に出兵したところで、源義家は戦闘をやめるよう両者に呼びかけました。豪族の内紛をやめさせるべく命令するのは陸奥守としての権限に基づくものでしたが、清衡・家衡はこれを受け入れずに出兵を継続します。
義家は命令に従わない清衡・家衡に対し、圧倒的な兵力でもって威嚇します。
「従わぬなら討つ」
という義家に対し、清衡・家衡は大人しく降伏することとなりました。
さて、ここまでは個性が強く独裁者の風格漂う真衡が、弟や叔父たちと争ったという話に過ぎません。しかし、清衡・家衡が降伏した直後になんと真衡が病死してしまい、事態は大きく動くこととなります。
真衡の病死自体、極めて怪しいものです。死因は何も記録されておらず、さっきまで元気に行軍していた真衡が突如として急死するとは、何らかの裏がありそうです。敵対する清衡・家衡あたりが暗殺した可能性が指摘されています。
真衡の死により、本来ならば養子・平成衡が家督を継ぐことになりそうです。しかし、弟が2人いるにもかかわらず養子を迎えたことがそもそもの内紛の原因だったわけで、そのような家督継承を清衡・家衡が納得するとは思えません。
ここで、家督継承争いを防止するために、再び源義家が介入してくることになります。
