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日本人の物語01384【室町/義教期】嘉吉の乱 子鴨を見たい

征夷大将軍が殺害される事件は、源頼家、源実朝、護良親王に続いて4人目ですが、「〇〇の乱」といった名前がついているのは初めてですね。(源頼朝や成良親王にも暗殺説はありますが確定的ではありません)

 いよいよ将軍義教が赤松満祐に殺害される「嘉吉の乱」について話すときが来ました。
 赤松満祐といえば、背丈が三尺(約120cm)ほどしかなく「三尺入道」と呼ばれて蔑まれていたことを既に述べました。義教が満祐に対して「三尺入道」と呼びかけると、満祐は
「体が小さくとも侮ってはいけない。私は3ヶ国(播磨・備前・美作)の主である」
と答え、義教を怒らせたとの話もあります。
 他にもこんなエピソードがあります。義教は猿を飼っており、人が入ってくると猿を放って襲わせて楽しむという趣味を持っていました。ところが満祐は襲ってきた猿を斬り捨ててしまい、義教をひどく怒らせたというのです。
 いずれも江戸時代に書かれた頼山陽の『日本外史』で初出の話であり、嘉吉の乱から逆算して作られたエピソードと思われます。特に後者の猿の話は戦国時代の大友宗麟と立花道雪の話と全く同じであり、とても史実とは思えません。
 とはいえ、満祐と義教の関係が悪化していたこと自体は事実でしょう。というのも、満祐は永享12(1440)年から「狂乱のため」と称して幕府への出仕をやめ、自ら謹慎するようになりました。赤松家からは満祐に代わって子の教康(のりやす:1423~1441)が出仕し始めます。満祐は義教と顔を合わせることすら嫌になったのでしょう。
 そして運命の嘉吉元(1441)年6月24日、赤松教康が将軍義教を西洞院の自宅に招きました。招待の名目は『建内記』によると結城合戦勝利の祝賀のためですが、『嘉吉記』によると
「当年の鴨の子、沢山に出来。水を泳ぎける躰、御目に懸くべし」
(鴨の子がたくさんできたので、水を泳ぐ姿をご覧ください)
というとても暗殺目的とは思えない理由が記されています。気に入らない者を次々と殺している独裁者義教が、子鴨の泳ぐ姿を見たくてノコノコ出かけたのだとしたら何とも間抜けです。
 招かれた諸大名は管領細川持之のほか、山名持豊、大内持世といった有力守護オールスターズともいえる面々でした。満祐は「狂乱」のため謹慎中の身であり、もてなしたのは教康です。義教お気に入りの猿楽者・音阿弥(おとあみ)が舞いを披露し、宴会は盛り上がっていました。
 音阿弥が3番目の演目『鵜飼』を披露していたとき、屋敷の中からドドドというけたたましい音が聞こえてきました。暗殺劇の始まりです。

石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史(全55巻)』では、嘉吉の乱の場面でちゃんとカモの親子が描かれていて、親が子に「ああいうオトナになってはいけませんよ」と言って義教を貶すシーンがあります。

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