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日本人の物語01160【南北朝後期】義詮死す

南朝方の強気は一体何なんでしょうね。もう30年以上も強気な態度が続いています。

 離反した守護たちの再登用を進めていた義詮は、さらに南朝との和平交渉にも乗り出します。正平22/貞治6(1367)年4月29日、義詮の提案で和平交渉が始まり、北朝からは佐々木道誉、南朝からは葉室光資(はむろてるすけ)が、それぞれ交渉に立ちました。
 交渉が進み、5月9日には葉室光資が将軍義詮に謁見して南朝側の講和条件を伝えるところまでいったのですが、ここで交渉は決裂に至ります。光資が見せた講和条件の文書に
「降参を許す」
との文字があったため、将軍義詮は
「対等な講和をする条件だったはずだ。我々が降参するとは聞いておらん」
と立腹したそうです。この後、南朝方の交渉窓口を楠木正儀に変更した上でなおも交渉は続けられましたが、これまた失敗に終わりました。
 さて、基氏の死は幕府の内紛にも大きな影響を与えました。その最たるものは、5月26日に桃井直常が出家して幕府に帰参したことでしょう。
 直義党の中でも最も過激派だった直常が幕府に帰順するとは驚きです。直義党シンパであった基氏が死去し、これ以上の抵抗が無駄だと悟ったためなのか、はたまた宿敵・斯波高経が政務から追放されたことに溜飲を下げたためでしょうか。ともあれ直常は許され、弟の直信が越中守護に就任することとなりました。
 大物の投降が続きます。7月13日にはあの斯波高経が杣山城で死去し、幕府を悩ませていた反逆がまた一つなくなりました。高経に従って越前に立て籠もっていた義将は、そもそも幕府を恨む気持ちがなかったらしく、父の死を契機として幕府への帰順を図ります。8月30日に義将は上洛し、9月4日に義詮に謁見して許されることが決まりました。
 南朝との交渉は頓挫したものの、大物2人を帰順させることに成功したところで、義詮は病に倒れました。11月25日、義詮は細川頼之とまだ10歳の義満とを枕元に呼び、こう述べました。
「頼之よ、汝に一子を与える。これより義満を我が子として後見せよ。義満よ、汝に一父を与える。これより頼之を父としてその言いつけを守れ」
 既に南北朝の動乱は30年に及んでおり、この難局を頼之と義満とで手を携えて乗り切っていくよう命じたのです。
 こうして細川頼之を第2代管領に就任させた上で、12月7日、義詮は37年の生涯を閉じました。これ以降、細川頼之が見事な采配でもって戦乱を終結に導き、さらに義満が敵対勢力を次々と葬って幕府の最盛期を築き上げることとなります。義詮は決して有能とはいえない将軍でしたが、最後の最後にこの名コンビを生み出したことは救いだったといえるでしょう。

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