日本人の物語00246【平安前期】蝦夷征討 阿弖流為・母礼投降
桓武天皇は、光仁天皇から引き継いだ蝦夷征討の課題を未だに解決できていませんでしたが、この問題はひどく後味の悪い形で終結することとなります。
少し時代は遡りますが、延暦13(794)年10月、征夷大将軍の大伴弟麻呂(おおとものおとまろ:731?~809)と副使の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ:758~811)が蝦夷を征討し、大勝利を収めました。「457人の蝦夷を斬首した」との報告が入ったと記述されていますが、どのような戦闘が行われたのかは定かではありません。
ちなみに、この大伴弟麻呂こそが、後に鎌倉・室町・江戸幕府の将軍を意味する「征夷大将軍」という役職に初めて就任した人物です。しかしこの戦いを主導したのは副使の坂上田村麻呂だったといわれています。
その後、副使から征夷大将軍に昇進した坂上田村麻呂は、延暦20(801)年2月14日に蝦夷に向けて出陣します。このときの戦闘についても詳細不明ですが、記録には「夷賊を討伏す」とあるので、征討に成功したということでしょう。
延暦21(802)年1月9日。坂上田村麻呂は陸奥国に胆沢城(いざわじょう:岩手県奥州市)を築き始め、蝦夷征討の新たな拠点としました。
それから間もなく、蝦夷の抵抗は止みました。他の族長が次々と投降していく中で、阿弖流為と母礼(00240回参照)ももはや抵抗を続ける気力を失ったのでしょう。田村麻呂が助命を約束した上で降伏を勧告したところ、阿弖流為と母礼はこれに従って投降することとなりました。
田村麻呂は阿弖流為・母礼とあっという間に信頼関係を築いてしまったわけで、それだけの度量ある人物だったのでしょう。同年7月10日には田村麻呂の付き添いのもとで、阿弖利爲と母礼は平安京に向かったと記されています。
ところがなんと、桓武天皇は阿弖流為と母礼を処刑してしまいます。田村麻呂は必死に助命を懇願しましたが、許されませんでした。桓武天皇の中では、巣伏での惨めな敗北が強く記憶されていたためでしょう。
NHKドラマ『アテルイ伝』では、大沢たかお演じる阿弖流為が祖国を守るために戦い抜く様子が描かれ、近藤正臣演じる桓武天皇が徹底的に悪辣な侵略者として描かれていました。高嶋政宏演じる坂上田村麻呂が蝦夷征伐という侵略政策に疑問を感じ始めるというストーリーでしたが、古代における外征政策を現代的な感性で糾弾することには賛否両論あることでしょう。
延暦22(803)年3月6日。坂上田村麻呂は、志波城(しわじょう:岩手県盛岡市)を築きました。既存の多賀城(宮城県多賀城市)と胆沢城(岩手県奥州市)より北方にある朝廷軍の拠点です。これをもって、朝廷による蝦夷征討はひとまず幕を下ろすこととなりました。
余談ですが、京都随一の観光地である清水寺は坂上田村麻呂が建立したもので、坂上氏の氏寺です。現在、清水寺境内には阿弖流為と母礼の慰霊碑が設置されています。
