日本人の物語00322【平安中期】四后併置
正暦元(990)年1月25日。一条天皇が9歳で元服しました。これにより、やっと嫁をもらうことができるわけです。
待ってましたとばかりに、兼家の長男である道隆は、娘・定子(さだこ:977~1001)を入内させました。一条天皇9歳に対して定子12歳です。一条天皇はこの3歳年上の妻を生涯愛し続けたようです。
兼家が高齢となったため、関白には道隆が就くこととなりました。そして定子に仕える女房として清少納言(せいしょうなごん:966?~1025?)が入内しました。清少納言はこの後、周囲とトラブルを起こして定子の元を一時的に離れることもあるのですが、定子との関係は生涯に渡って良好だったといわれています。
同年7月2日。最高実力者の兼家が遂に死去しました。ここからは兼家の長男・道隆の治世が始まります。一方、三男・道兼は、「花山天皇を出家させたのは私なのに、なぜ父は兄を後継者にしたのか」と不満を漏らし、喪に服さず人を呼んで遊びふけったといわれています。こんな態度では出世は望めませんね。
さて、道隆はさっそく強引な手法で権力掌握に努めます。「四后併置」と呼ばれた手法です。
そもそも律令では、中宮、皇太后、太皇太后を総称して「三后」と呼んでいました。公式の取り決めがあったわけではありませんが、概ね
・中宮(皇后ともいう)=現在の天皇の正妻
・皇太后=現在の天皇の母
・太皇太后=前の天皇の皇后
といったものでした。
一条天皇の時代には、
・太皇太后は、冷泉天皇の時代に皇后だった昌子内親王(まさこないしんのう:950~1000)
・皇太后は、円融天皇の女御で一条天皇の母に当たる藤原詮子
・中宮(=皇后)は、円融天皇の時代に皇后だった女性で、子供を産まなかった藤原遵子
となっており、三后のポストが全て埋まっていました。
ところが永祚2(990)年10月5日、藤原道隆は娘の定子をどうしても后にしようと画策し、遵子を「皇后」とし、定子を「中宮」と位置付け、これまで同一視されていた皇后と中宮を分離したのでした。
あまりの強引さに公卿らは仰天しました。藤原実資は日記『小右記』に「皇后四人の例、往古聞かざることなり」と記しました。
定子立后の儀式に道長は出席しませんでした。兄のあまりに強引な手法に抗議の意を表明したものとみられます。
まあ、道長もこの後、同レベルの強引な手法をとることになるのですが。
