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日本人の物語01218【南北朝最末期】宗良親王と尹良親王

「歴代征夷大将軍は全部で何人か」という問題は非常に難しいです。ChatGPTに聞いても、将軍に就任したことのない北条時宗などがカウントされてしまったり、南朝方の将軍(護良・成良・興良・宗良)を数え損ねたりして、正解には辿り着きません。ちなみに私の回答は(実在が怪しい尹良親王はカウントしないことにして)45人です。

 元中2/至徳2(1385)年2月。了俊が頼りにしてきた禰寝久清が南朝に身を投じました。もはや見る影もない南朝方にあえて寝返るとは意外ですが、了俊が禰寝氏をこき使うばかりで何らの恩恵を与えなかったためでしょう。
 そして同年8月10日、信濃・遠江で活動していた南朝方の征夷大将軍・宗良親王が井伊谷(静岡県浜松市)で死去し、龍澤寺に葬られました。諏訪に向かう途上の入野谷郷(長野県伊那市)で戦死したとの異説もあります。
 後醍醐天皇の皇子8人はこれで全員死去したこととなります。次男世良は夭折、三男護良は鎌倉で直義に斬られ、長男尊良は金ヶ崎城で自害。五男恒良と六男成良は越前国府の戦い後に捕らえられ、毒殺。七男義良は後村上天皇として即位するも病で崩御。
 残る八男懐良と四男宗良の2名が長い放浪の人生を送ったわけですが、懐良親王が菊池一族という心強い味方を得て連戦連勝を重ねたのに対し、宗良親王は新田一族とともに敗戦を重ねました。
 この宗良親王の流離譚は後世の人々の琴線に触れたらしく、様々な伝説が創作されていきます。特に宗良親王の遺児・尹良親王(ゆきよししんのう:1364~1424)については、後世の様々な伝説がある一方で、同時代の史料には一切関連記載がないことから、架空の人物の可能性が高いと考えられています。
 伝説上の尹良親王の生涯は次のとおりです。遠江井伊谷で産まれ、父の死後まもなくの元中3/至徳3(1386)年に征夷大将軍に任命されますが、その6年後には南北朝が合一されます。その後もなお幕府に抵抗し続け、宇津野(静岡県富士宮市)へ移り住んだり、柏坂(山梨県甲府市)で鎌倉公方軍と戦ったり、寺尾城(群馬県高崎市)に移るもそこが陥落すると下野落合城(栃木県上三川町)に没落したり、本当に様々な場所で戦っています。
 その後は砦山(愛知県豊根村)の合戦に敗れて島崎城(長野県岡谷市)の千野頼憲(ちのよりのり:これは実在の人物とみられる)を頼っていましたが、応永31(1424)年に三河足助(愛知県豊田市)へ向かう途中、浪合(長野県阿智村)で待ち構えていた幕府軍と戦闘になり、追い詰められて自決しました。長野県阿智村にはしっかりと尹良親王の墓も建てられていますし、尹良親王を祀る川宇連神社(愛知県豊根村)には立派な銅像もあります。
 これだけ詳細な伝説と関連史跡が作られるほどに、南朝方の皇子が流浪の人生を送るという物語は魅力的なものだったのでしょう。
 実際、尹良親王の存在は架空だとしても、その父である宗良親王の流浪の旅は信濃・遠江・越中・越後にまたがる実に冒険的なものでした。この宗良親王の死によって、東国の南朝方の活動はほぼ終焉を迎えたといってよいでしょう。

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