見出し画像

日本人の物語01506【室町/東国/享徳の乱】成氏と憲忠の新政権

山内上杉憲実が結構好きです。潔い生き方なんですよね。

 嘉吉2(1442)年3月、結城合戦の残党・宍戸持里(ししどもちさと)が宍戸城(茨城県笠間市)で挙兵したものの長尾景仲がこれを鎮圧し、関東は辛うじて平和を保っていました。
 文安元(1444)年に山内上杉清方が死去し、関東管領の職は空席となっていました。文安2(1445)年8月、幕府は隠遁中の憲実に再度の就任を打診しますが、かつて主君の持氏を死なせてしまったことを悔いていた憲実は強硬に拒絶します。後花園天皇からの綸旨まで出して復職を要請したのに、憲実はそれでも承諾しませんでした。
 憲実は自分だけでなく、息子たちをも関東管領に就任させたくなかったらしく、次男の房顕(ふさあき:1435~1466)以外の男子には出家するよう指示していました。唯一残った房顕も京都で幕府に奉公していたため、山内上杉家は当主不在となってしまいました。
 幕府からの度重なる催促に対し、憲実は他家から養子を取って関東管領に就任させられないかと考えます。そこにちょうど、「常陸国の佐竹義人が嫡男・義俊に家督を譲ったものの、次男の実定(さねさだ:?~1465)の方が可愛くなってしまい、実定にそれなりの地位を与えたいと考えている」との情報が入ってきました。憲実は佐竹義人と相談の上、実定を養子に取りました。
 憲実は養子の実定に、上杉家伝来の宝物を譲り渡す準備までしていましたが、実定の関東管領就任に山内上杉家家宰・長尾景仲が猛反対して、実現せずに終わりました。隠居済みの憲実よりも実務を切り盛りする長尾景仲の方が多くの支持を集めたのでしょう。
 文安3(1446)年2月、景仲は新たな当主として15歳の山内上杉憲忠(やまのうちうえすぎのりただ:1433~1454)を擁立し、幕府に申請しました。憲忠は憲実の長男であり、順当に考えれば当然の人選です。しかし憲実は、出家の約束を破って関東管領に名乗りを挙げた憲忠に激怒し、義絶してしまいます。
 父とのトラブルはあったものの、こうして関東管領は内定しました。あとは鎌倉公方です。
 持氏亡き後空席となった鎌倉公方に誰を据えるか、長尾景仲は頭を悩ませたでしょうが、4月には内定しました。大井城(長野県佐久市)で大井持光(おおいもちみつ)に匿われていた持氏の遺児・永寿王丸です。
 この人選は大変リスキーなものでした。幕府や関東管領に殺された持氏の遺児ですから、当然幕府や関東管領を敵視しているに決まっています。他に近い血筋の人が見当たらなかったとはいえ、なぜ戦乱を招くと思わなかったのでしょう。
 文安4(1447)年7月4日に15歳の山内上杉憲忠が関東管領に就任し、8月27日には10歳の永寿王丸が鎌倉入りしました。
 そして文安6(1449)年7月、永寿王丸は元服し、将軍義成(義政のことですが、この時点では義成と名乗っていました)から一字を賜り、足利成氏と名乗りました。
 新公方・足利成氏と新管領・山内上杉憲忠による不安しかない新政権がいよいよ幕を開けました。

「やめときゃいいのに」という人選ですよね。この人選こそが関東での戦国時代の呼び水になったといっても過言ではありません。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集