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日本人の物語01037【南北朝前期】薩埵山の戦い 直義党逃走

観応の擾乱、やっと決着がつきそうです。長くかかりましたね。

 宇都宮氏綱は
「よし、陣を構えて戦え」
と号令をかけて、小川が流れているところに陣を構えました。先に仕掛けてきたのは、桃井軍7千騎です。
 1時間ほどの戦いで、なんと数に劣るはずの宇都宮軍が桃井軍を次々と討ち、撃退してしまいました。
 勝利した宇都宮軍には、日和見していた兵たちが次々と合流してきて、なんと3万騎にまで拡大しました。この宇都宮軍がまもなく薩埵山にやって来るぞとの情報が寄せられ、直義党の面々は
「宇都宮勢が近づいてくる前に、薩埵山を攻め落としてしまおう」
ということになりました。ところが、誰一人最初に攻めこもうとする者がいません。苛立った児玉党3千騎が薩埵山へ攻め寄せていきました。
 初登場の「児玉党」というのは現在の埼玉県本庄市・児玉郡あたりを本拠とする武士団で直義党の構成員ですが、このときどんな人物が統領だったのか、よく分かっていません。
 数に劣る尊氏方が、坂の途中に仕掛けておいた石をぱっと落としたところ、児玉党は石に押しつぶされて次々に死んでいきました。ひるんだところを斬りかかられ、児玉党の17人が戦死したといいます。
 直義党は50万騎もいるのですから、同時に攻め入れば簡単に勝てたはずなのに、児玉党の敗北をただただ見ているばかりです。それどころか、
「この程度の城は何もしなくても落ちるのに。手柄目当てに合戦して討たれるとは、愚かしい」
などと嘲笑する者が多かったといいます。実にあさましい態度です。
 そして正平6(1351)年12月27日、遂に宇都宮勢3万騎が竹下(神奈川県小田原市)まで近づいてきました。宇都宮軍の篝火の数がおびただしく見えたので、直義党の50万騎は戦いもせず四方八方に逃げていきました。伊豆国府(静岡県三島市)にいた直義本人は、戦いもせず北条(静岡県伊豆の国市)へ逃亡しました。
 ちょっと不思議なのは、神奈川県小田原市の篝火が静岡市や三島市まで見えるかなというのと、3万騎の篝火に驚いて50万騎が逃げ出すのはなぜかという点です。どちらも太平記の記述なので、信用はできません。
 そもそも直義党は戦わずして逃げたという記述自体も疑わしいですね。いずれにせよ、直義党は尊氏らに敗北したことは間違いないでしょう。

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