日本人の物語00817【建武期】武士たちの不満
後醍醐天皇の決定した恩賞は、一体かくも偏ってしまったのでしょうか。
推測するほかないのですが、後醍醐天皇には、どうも自らの近くで仕えていた者ばかり優遇する癖があるようです。これは後醍醐天皇に限らず現代の組織にもよくあることかもしれません。
後醍醐天皇にとって、隠岐配流の際に身近にいた側近といえば、側室の阿野廉子と下級貴族の千種忠顕です。さらに隠岐脱出後に船上山に匿ってくれた名和長年も身近にいた期間が長いでしょう。そして笠置山に立て籠もったときに会いに来てくれた楠木正成のことも、深く記憶に留められたに違いありませんし、最初に倒幕を計画した時点で一緒にいた文観に対しても深い思い入れがあったのでしょう。彼らはいずれも十分な恩賞を得ています。
一方で、足利尊氏・新田義貞・赤松円心については、幕府滅亡の時点で後醍醐天皇は一度も会ったことがなかったと考えられます。さすがに六波羅攻略と鎌倉攻略の最大の功労者で源氏出身という出自を持つ足利・新田には恩賞が必要と判断して一定のものを与えたわけですが、播磨国の悪党に過ぎない赤松は後醍醐天皇から見ると取るに足らない存在だったのだと思われます。六波羅を陥落させる上で赤松が為した功績を、天皇は過小評価したのです。
恩賞をもらえなかった赤松円心は、やがて京を出て地元・佐用庄に帰ってしまいます。そして後に尊氏が後醍醐天皇と対立して挙兵した際、尊氏方につくこととなるのです。
後醍醐天皇の傍で働いて来なかった武士たちが、ことごとく不十分な恩賞に不満を抱く中で、数少ない例外となったのが武者所の所司に就任した新田義貞でした。
武者所とは武士を束ねる組織であり、つまり都を守る武士たちのトップに据えられたといえます。新田義貞がどのような猟官運動によってこのポストを得たのか分かりませんが、おそらく後醍醐天皇は武家の最大勢力たる足利家を警戒し、足利・新田を競わせることでバランスを取ろうと考えたのでしょう。そのために最大勢力の足利には何も与えず、2番手の新田を依怙贔屓したものとみられます。義貞は鎌倉を捨てて上洛した甲斐があったというものです。
新田義貞の登用を聞いた足利家は不満をくすぶらせます。特に強い不満を持ったのが尊氏の弟・足利直義でした。直義は尊氏と異なり、後醍醐天皇への敬意や思慕を持っていません。尊氏は個性の強い弟・直義に引っ張られ、徐々に後醍醐政権との対立を深めていくこととなります。
後醍醐天皇の新政権はさっそく大きな火種を抱えることとなったのです。
