日本人の物語00984【南北朝前期】南北朝前期概観
今日から観応の擾乱に入ります。私の中では大河ドラマ「太平記」の
足利尊氏: 真田広之
足利直義: 高嶋政伸
高師直: 柄本明
のイメージが強いのですが、専門家に言わせると直義のキャラはドラマと大きく異なるのだそうで。
南朝が賀名生に移った正平3/貞和4(1348)年1月30日から、足利家の兄弟闘争に決着がつく正平7(1352)年2月26日までを「南北朝前期」としてまとめていきます。
この4年間は「観応の擾乱」と呼ばれる北朝の内紛を取り上げます。日本史教科書(山川出版社)では、次のとおりたった2文で済まされている部分です。
「鎌倉幕府以来の法秩序を重んじる直義を支持する勢力と、尊氏の執事高師直を中心とする武力による所領拡大を願う新興勢力との対立がやがて激しくなり、ここに相続問題もからんで、ついに1350(観応元)年に両派は武力対決に突入した(観応の擾乱)。抗争は足利直義が敗死したあとも続き、尊氏派(幕府)、旧直義派、南朝勢力の三者が、10年余りもそれぞれ離合集散を繰り返した」
つまり、足利尊氏を支える弟・直義と執事・高師直の対立が激化し、①北朝尊氏党(師直派)②北朝直義党③南朝の三つ巴の争いとなったというのです。
歴史上、三頭政治というのは常にトップを支える2人の対立を来すものです。推古天皇を支えた聖徳太子と蘇我馬子しかり、細川護熙を支えた小沢一郎と武村正義しかりです。
これまで言及していませんでしたが、実は対立の火種は以前から既にありました。例えば興国4/康永2(1343)年7月3日、関城にいた北畠親房が結城親朝に出した書状(関城書)の中で
「直義、師直の不和、既に相克に及ぶ」
との記述があるのです。まだ武力衝突にまで達していないものの、敵方である南朝に聞こえるほどにまで直義と師直の険悪さは話題になっていたのです。その対立の原因は何だったのでしょうか。
尊氏は征夷大将軍でありながら、政務のほぼ全てを弟・直義に委ねていました。
この頃、直義は三条坊門(京都市中京区)の邸宅に居住しており、「三条殿」と呼ばれていました。鎌倉に居住する征夷大将軍が「鎌倉殿」と呼ばれ、室町に居住する征夷大将軍が「室町殿」と呼ばれたように、直義は「三条殿」として事実上征夷大将軍に近い権限を持って全てを取り仕切っていたのです。この頃の発給文書をみると尊氏名のものも多少はあるものの、ほとんどが「三条殿」こと直義の名で発給されています。
一方、尊氏は軍事のほぼ全てを執事・高師直に委ねていました。師直は南北朝時代のシミュレーションゲームでは戦闘力を最大に設定されるほどの最強武将であり、南朝の主要武将を次々と葬っていった人物です。
直義のような政務を担当するクソ真面目な堅物と、師直のような軍事を担当する大らかな豪快キャラとの間で感情的な対立が起こるケースはよくみられます。関ヶ原の戦いの遠因となった石田三成と加藤清正の対立もその一例でしょう。
本章では、この対立が武力衝突に発展し、直義が敗死するまでをまとめていきます。
