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日本人の物語01572【室町/西国/応仁の乱】土一揆合戦

肥前千葉氏については詳細な書籍が出版されているのでここまで詳しいことをまとめられるようになりました。東統禅氏の「肥前千葉氏の戦国時代)(戎光祥出版)という本です。

 後花園法皇の崩御に前後して、文明2(1470)年12月23日に肥前で起こった土一揆合戦について紹介します。
 肥前千葉氏については、大村家親を討伐しようとした千葉教胤が、船の転覆による呆気ない事故死を遂げたところまでお話ししました。神罰なのか事故死なのか戦死なのかよく分からない謎の死でしたね。
 千葉教胤は子を持たないまま18歳で死去したため、家督を誰が継ぐかが問題でした。最も近い親戚といえば、あの因縁の兄弟対決で敗れた胤紹の子しかいません。軽く復習しますと、
〇胤鎮・胤紹の兄弟対決があり、文安2(1445)年8月に兄の胤鎮が弟の胤紹を討った。
〇胤鎮の孫・教胤に対して胤紹の子・胤朝が寛正6(1465)年に今川胤秋と組んで反乱を起こした。
という流れであり、今は兄の胤鎮の系統が当主を務めているのに、弟の胤紹の系統しか残っていないのです。
 仇敵を当主に据えることに家臣たちから大いなる反発があったでしょうが、他に親族がいないのですから仕方ありません。家老の中村胤明(なかむらたねあき:?~1470)が中心となって家臣たちを説得し、かつて反逆した千葉胤朝を当主に迎えることとなりました。
 ただ、どうしても納得できなかった家臣がいました。岩部常楽(いわべじょうらく:?~1470)という人物です。岩部は文明2(1470)年10月19日、胤朝の弟で僧籍に入っていた胤将(たねまさ)を還俗させ、擁立しました。どちらにしても反逆者の家系ではありますが、以前反乱事件を起こした胤朝よりは胤将の方がマシと思ったのでしょう。
 こうして肥前千葉氏はまたもや兄弟対立に陥ったわけですが、ここに参戦し、胤将方への加勢を決めたのが隣国の少弐政資でした。宗貞国も少弐政資に誘われて嫌々ながら参戦することとなり、千葉家の兄弟対決は応仁の乱の代理戦争という性質を帯びてきました。
東軍: 千葉胤将、少弐政資、宗貞国、岩部常楽
西軍: 千葉胤朝、大内政弘、中村胤明
 11月14日。家老の中村胤明は岩部方を攻めますが戦死し、勢いに乗った岩部勢が小城城下を焼き払いました。
 ところがこの焼き討ちで岩部勢は民衆の多くを敵にしてしまいました。12月23日、勝利した岩部勢が帰ろうとしたところ、郷民たちがこれを襲撃して岩部常楽は戦死、千葉胤将も少弐政資も宗貞国もボロボロになって命からがら帰国したのです。この事件を「土一揆合戦」といいます。

九州戦国史はまだ不勉強で、今まさに16世紀の九州について執筆のための勉強をしているところです。

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