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日本人の物語01552【室町/西国/応仁の乱】西陣の戦い

京都には何度も行ったことがありますが、船岡山には一度も登ったことがありません。地元民でもなかなか行かない場所と思われます。

 すぐに奪回したとはいえ相国寺の陣を失ったことに衝撃を受けた東軍は、逆に攻勢をかけます。その標的は、西軍の主力である大内政弘の拠点・船岡山(京都市北区)でした。
 応仁元(1467)年12月7日に東軍は船岡山を攻撃しましたが、びくともせず失敗に終わります。この船岡山をめぐっては本格的な合戦がまた後で発生します。
 両軍が見合ったまま、遂に年が明けました。
 応仁2(1468)年1月1日。近衛政家(このえまさいえ:1444~1505)は日記『後法興院記』の中で
「法皇・天皇が室町第(将軍御所)に避難しているため、年始の儀礼ができない。内裏には土岐成頼が布陣し、仙洞御所には畠山義就が布陣している。昨年9月からずっとこの調子である」
と嘆いています。そのような異常事態が長期に渡っているのです。
 東軍方も手をこまねいているわけではありません。10月に相国寺を奇襲されたお返しとばかりに、なんと元日を狙って西軍の陣地への奇襲を敢行しました。西陣の戦いです。西軍側も、さすがに元日に攻めてくることはないだろうと高をくくっていたのでさぞ驚いたことでしょう。
 ちなみに山名宗全の邸宅を中心とした西軍の陣地は、応仁の乱をきっかけに「西陣(にしじん)」と呼ばれるようになりました。ここで生産される絹織物は「西陣織」と呼ばれ、国の伝統工芸品に指定されています。
 なお、東軍の陣地について「東陣(ひがしじん)」という呼び方もあったそうですが、いまいち定着せず廃れたようです。東軍の主たる陣地である将軍御所は「室町第」「花の御所」といった呼び名がありますし、内裏や仙洞御所にも程近い場所のため、特別な名称が必要なかったのでしょう。それでも近年、東陣の地域住民らが「東陣プロジェクト実行委員会」を立ち上げ、応仁の乱にまつわる史跡の整備に努めています。
 西陣への奇襲は、西軍方の防御が非常に固かったため失敗に終わり、戦はまだまだ長期化することとなりました。
 ちなみにこの年の2月に、西軍方の管領・斯波義廉と、関東で反乱継続中の古河公方・足利成氏とが和睦している書状が現存しています。「応仁の都鄙和睦」と呼ばれるものです。
 義廉が享徳の乱に介入することで政治の主導権を握ろうとしたのか、はたまた成氏方が幕府との和睦の窓口として義廉に仲介を頼んだのか、目的が不明なままです。そして和睦文書らしきものが残っている割には、成氏がその後も享徳元号を使い続けていることから考えると、恐らく不調に終わったものと思われます。
 この「応仁の都鄙和睦」については、書状2通が残っているだけで詳細が全く不明なため、今後の研究が待たれるところです。

西国と東国に分けて通史を叙述しているわけですが、時々こうして両者が関係する事項が出てきます。

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