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日本人の物語01093【南北朝中期】大友氏時の裏切り

南九州の地名はこれまであまり出てこなかったですね。この後、戦国時代に入ると頻繁に登場すると思います。

 さて、ここで九州の情勢に目を転じてみましょう。
 一色直氏が菊池武光に敗れて本州へ逃亡した後、少弐・大友・島津らは次々と南朝に味方し、九州の中で幕府の味方は日向国の畠山直顕だけとなりました。
 ここで畠山直顕について詳しく紹介しておきましょう。直顕は元々、延元元/建武3(1336)年に南朝方・肝付兼重(きもつきかねしげ:?~1349)の討伐のために幕府が派遣した人物です。元々は「義顕」と名乗っていましたが、その後直義党に属したので「直顕」に名を変えました。
 直顕は大隅国を拠点とする肝付兼重と対峙するため、日向に土着して周辺の武士を次々と味方につけていき、やがて大隅国岩屋城(鹿児島県姶良市)に拠点を築くことに成功しました。その後、観応の擾乱が起こり、直顕は直義方についたため、尊氏党の島津氏と敵対することとなりました。
 正平11/延文元(1356)年10月。島津氏は
「幕府からの支援が不十分だし、南朝とも畠山とも戦わねばならないのは大変だ。ここは南朝と組もう」
と言って、南朝方に寝返ってしまいました。直顕にとって突然周囲が全員敵となってしまったのです。
 南朝方にとって、九州内に残る敵は畠山直顕だけとなりました。正平13/延文3(1358)年11月17日、菊池武光は日向国穆佐城(むかさじょう:宮崎県宮崎市)に立て籠もる畠山直顕を討つため、5千騎を率いて菊池を発ち、日向へ向かいます。敵わぬと見た直顕は城を捨てて三俣城(宮崎県都城市)に逃亡しました。言わば菊池の活躍によって、島津は長年の敵を排除できたわけです。
 あとは、三俣城に逃亡した直顕を討てば、九州は全て南朝勢力の手に落ちます。
「もう一息だ」
と思った菊池武光のもとに、驚きの情報がもたらされました。豊後の大友氏時が南朝を裏切り、幕府方についたというのです。大友氏時といえば、元々は幕府方だったのが懐良親王・菊池武光に敗れたことで南朝方に寝返った人物です。心ならずも南朝方についたものの、裏切る機会を虎視眈々と狙っていたのでしょう。
 南方には畠山直顕、北方には大友氏時。いわば挟み撃ちにされてしまった状況ですが、菊池武光はどうするのでしょうか。

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