日本人の物語01459【室町/西国/大乱前夜】肥前千葉氏の兄弟対決
また場所がだいぶ飛びます。
【⑥肥前国における千葉胤鎮・胤紹兄弟の争い】
千葉氏といえば下総国千葉、現在の千葉県北部を拠点とする一族ですが、彼らの分家筋が肥前国小城(おぎ:佐賀県小城市)に領地を与えられ、「肥前千葉氏」として土着していました。文安2(1445)年に肥前千葉氏の兄弟対決の決着がつくので、見ていきましょう。
そもそも九州北部では、大内氏による少弐氏討伐が何年も続いていました。小城城主の千葉胤基は、応永11(1404)年時点では大内氏とともに少弐氏討伐に加わっていましたが(01263回参照)、胤基の子・胤鎮(たねしげ:?~1455)の代になると、なぜか少弐教頼(しょうにのりより:1426~1468)とともに幕府方の大内教弘(おおうちのりひろ:1420~1465)と戦っていました。つまり幕府からみると肥前千葉氏は反乱軍の一員になっていたのです。
ところが永享10(1438)年2月、千葉家家宰の中村胤宣(なかむらたねのぶ)が密かに大内教弘と通謀し、胤鎮を廃してその弟の胤紹(たねつぐ:?~1445)の擁立を謀りました。このクーデターは、将軍義教からの御行書まで獲得して行われたものだったので、胤鎮は大人しく当主の座を明け渡すほかありませんでした。
領国を追われた胤鎮は、これ以降6年間もの潜伏生活を送ります。将軍義教は大内持世に
「小城の残党(つまり胤鎮のこと)を討伐すべし」
と命令を発しましたが、胤鎮の行方は杳として知れませんでした。
やがて亡命中の胤鎮にチャンスが巡って来ました。将軍義教が殺され、義教の政策をことごとく否定する畠山持国が管領に就任したのです。今こそ、あの義教の命で行われたクーデターを否定し、家督を元に戻す好機が到来したのです。
文安元(1444)年、胤鎮は突如として現れ、挙兵しました。それまでの6年間どこで何をしていたかは謎に包まれています。
胤鎮の挙兵には千葉家家臣の多くが協力しました。彼らは家宰・中村胤宣の専横に怒っていたようです。
少弐教頼の援助を得た胤鎮は、翌文安2(1445)年8月に山田(佐賀県小城市)の戦いで胤紹軍を破り、8月17日に小城城を陥落させました。胤紹は息子の政胤(まさたね:?~1445)とともに討ち死にし、胤鎮は小城城主の座に返り咲きました。
こうして兄弟骨肉の争いは収束しました。幕府での政権交代(足利義教→畠山持国)は様々な領国に影響を与えたのですね。
千葉家といえば、頼朝の鎌倉幕府創設を手助けした千葉常胤という人物がいましたね。その「胤」の字が今もなお引き継がれています。
