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日本人の物語00592【鎌倉前期】比企能員の変 仁田忠常横死

 建仁3(1203)年9月5日。病から回復した頼家は一部始終を聞き、激怒します。危篤状態からやっと回復したと思ったら、いつの間にか妻も息子も義父も殺され、朝廷では自分が死んだことになっていて、将軍位は弟に譲られることが内定していたわけですから、言わば何もかも失っていたわけで、それは想像を絶するショックでしょう。
 怒りに駆られた頼家は、側近の堀親家に
「時政を誅殺するよう和田義盛と仁田忠常に命じる。命令を伝えてまいれ」
と指示しました。仁田忠常といえば、時政の命で比企を殺害した張本人です。頼家は、仁田が北条方の人間であることを理解していなかったのでしょうか。
 堀親家はさっそく命令書を持って和田義盛を訪ねていきますが、和田義盛は命令に従う気はさらさらなく、命令書を時政に見せてしまいます。時政の指示により、堀親家はたちまち殺されてしまいました。
 悲哀を極めたのは仁田忠常です。仁田忠常は命令書を受け取ったのか、受け取らなかったのか、定かではありませんが、いずれにせよ頼家の命に従うつもりはありませんでした。そんな中、9月6日に時政邸で比企追討の恩賞が与えられることとなり、仁田忠常もこれに参加しました。しかし、日が暮れても仁田忠常は時政邸から出てきません。
 忠常の家人は不審がり、仁田邸に戻って報告しました。忠常の弟である仁田五郎・六郎(にったごろう・ろくろう)の兄弟は、
「さては兄は北条に討たれたか」
と思って、仇を討つべく北条義時邸に出向きますが、義時は留守でした。義時が姉・政子の住む御所(将軍の邸宅)にいると知った五郎・六郎は、御所を襲撃し、火を放ちます。
 義時は御家人たちを率いて必死に防戦し、五郎を討ち取り、六郎を自害に追い込みました。騒ぎを聞いて時政邸にいた御家人たちも、我も我もと御所に集まってきました。
 なんと、その中に仁田忠常の姿がありました。仁田忠常は酒宴のため時政邸に長居していただけで、殺されてなどいなかったのです。五郎と六郎の早合点のせいで、仁田一族は幕府に謀反を起こしたことになってしまったわけです。
 時政・義時としても、かくなる上は仁田忠常を生かしておくわけにいきません。御所にやって来た仁田忠常は、御家人の加藤景廉(かとうかげかど:1156~1221)に討ち取られてしまいました。
 さて、9月7日には京において千幡を征夷大将軍に任ずるとの宣旨が出て、それが9月15日に鎌倉に到着しました。そうなると、頼家は全くの用済みです。9月29日、頼家は修禅寺(静岡県伊豆市)に幽閉されることとなり、鎌倉を出発しました。
 政子は長男を犠牲にして北条家の利益を守ったのでした。

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