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日本人の物語00558【鎌倉前期】鎌倉幕府の機構

 鎌倉幕府が本格的に成立したところで、その統治機構について紹介しておきましょう。
 まず置かれたのは、一般政務や財政をつかさどる「政所(まんどころ)」です。その長官を「政所別当」と呼び、都からスカウトされた文人官僚・大江広元が起用されました。
 次に、御家人の統制をつかさどる「侍所(さむらいどころ)」が置かれました。その長官を「侍所別当」と呼び、三浦一族出身の武士・和田義盛が起用されました。
 最後に、裁判事務をつかさどる「問注所(もんちゅうじょ)」が置かれました。その長官を「問注所執事」と呼び、これまた都からスカウトされた文人官僚・三善康信が起用されました。
 こうして見ていくと、3長官のうち2人を文人から採用したわけですから、頼朝が文人をどれだけ重用したかがよく分かります。武士集団を組織したといっても、主な敵対勢力が不在となった今、結局は行政文書の発出によって政務を行ったり、文書のやり取りによって朝廷と交渉したりする仕事が重要になってくるわけですね。
 頼朝は平家や奥州藤原氏との戦闘の中で、御家人の一人一人の性格を知り尽くした上で統率をしており、当初は「頼朝とその家臣たち」という個別の信頼関係による集団を構築していました。しかし、この頃から行政機構として組織された集団を志向し始めていたようです。
 それを象徴するエピソードがあります。征夷大将軍に任命されて間もない建久3(1192)年8月5日、政所は「政所下文」という書状を千葉常胤に与えました。千葉常胤の所領を安堵する、つまり千葉常胤の治める領地について、「間違いなくここは千葉常胤のものである」と公式に認めるための書状です。
 しかし、こうした書状はかつて頼朝の花押のある文書で発出されていたのに、今回は政所職員の署名しかありません。千葉常胤は
「政所職員の署名だけの文書では、所領安堵の証拠とすることはできない」
と不満をもらし、
「今回からはこうなったのです」
といくら説得しても聞きませんでした。千葉常胤は、かつて頼朝が
「今後は父と仰ぐこととする」
と述べたほど平家追討に功のある御家人ですから、頼朝はやむなく自身の花押のある文書を出し直したといいます。その後、他の御家人たちも千葉常胤と同様に頼朝の花押を求めました。
 つまり、頼朝は「個人的なカリスマをもって作った武士団」から徐々に「個人色を薄めた組織機構」へと作り替えようとしたのに対し、御家人はあくまで頼朝個人に付き従おうと考えており、そこに主従の意識の差があったといえるのです。

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