日本人の物語00108【人代前期】10代崇神天皇
開化天皇60(B.C.98)年4月9日に開化天皇が崩御し、その翌年に子の崇神天皇が即位しました。御所は水垣宮(現在の奈良県桜井市)です。一応日本書紀から計算される年号を括弧書きで記しておりますが、史実とは思えないので、年号については引き続きあまり気にしないでください。
崇神天皇5(B.C.93)年。疫病で多数の死者が出ました。国民の半数以上が死んだと書かれていますから、史実だとしたらコロナとは比較にならないレベルの日本史上最大のパンデミックですね。
困った崇神天皇は、崇神天皇7(B.C.91)年2月15日、モモソヒメ(百襲姫)に占わせました。モモソヒメは第7代孝霊天皇の娘ですから、崇神天皇にとっては大叔母に当たります。
占いの結果、オオモノヌシがモモソヒメに神がかり、
「オオタタネコ(太田田根子)に私を祀らせよ」
と言いました。オオタタネコはオオモノヌシの4代子孫です。11月13日、言われたとおりにオオタタネコを祭主として神を祀ったところ疫病がやみました。このとき作られたのが、オオモノヌシを祭神とする大神神社(奈良県桜井市)だと考えられています。
このエピソードは一体何を意味しているのでしょうか。
オオモノヌシといえば、オオクニヌシとともに出雲の国作りを行った神でした。古事記ではオオクニヌシとオオモノヌシは別人とされていますが、日本書紀では同一人物と描かれています。いずれにせよ、オオモノヌシは伊勢系ではなく出雲系の神ということになります。
そのオオモノヌシが
「私をちゃんと祀っていないではないか」
と怒って疫病を流行らせたとも捉えられます。出雲系の神は、伊勢系の神が統治する日本に対して祟ることがあるようです。その祟りを鎮めるために出雲大社などの出雲系の神社があるのでしょう。
さて、疫病を撲滅した崇神天皇は、崇神天皇10(B.C.88)年9月9日、4人の将軍を各地に派遣します。これを「四道将軍(しどうしょうぐん)」と呼びます。
四道将軍とその派遣先は次のとおりです。
・オオビコ(大彦):北陸道
・タケヌナカワワケ(武渟川別):東海道
・キビツヒコ(吉備津彦):西海道
・タンバミチヌシ(丹波道主):丹波
四道将軍を派遣しなければならなかったということは、この時代には天皇の統治はまだ大和周辺にしか及んでいなかったということでしょう。崇神天皇の時代になって初めて、その統治権が他の地域に広がったと言えそうです。
