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日本人の物語00607【鎌倉前期】藤原定家 新古今和歌集の編纂

 実朝の公家志向や和歌への憧憬については既に述べました。義時・政子にとっても実朝が朝廷とパイプを持つこと自体は理想的なことだったと思われますが、実朝の都への思いは義時らの予想をはるかに上回っていました。
 建永元(1206)年から『新古今和歌集』を用いて本格的に和歌修行を始めた実朝は、承元3(1209)年7月、思い切って『新古今和歌集』の選者である藤原定家に自身の詠んだ和歌を書き送ります。
 ここで天才歌人・藤原定家について取り上げておきましょう。
 藤原定家は、『千載和歌集』を撰進した歌人・藤原俊成の子として産まれました。幼少期から父に歌の手ほどきを受け、西行や平忠度といった歌人らと親交を持っていました。
 16歳で初めて歌合(うたあわせ)に参加し、18歳のときに世を揺るがす源平合戦を目のあたりにしますが、日記『明月記』には
「紅旗征戎(平家追討)わが事にあらず」
と書いており、世間の動向には興味がなかったようです。ひたすら和歌を極めることだけに注力していたのでしょう。
 文治元(1185)年、直情径行の定家は、宮中で源雅行(みなもとのまさゆき:1168~?)に侮辱されたとして殴りかかり、官職を停止されてしまいます。しかしその後、九条家と親交を深め、歌の才能にも注目されめきめきと頭角を現していきました。
 その後、建久七年の政変により九条家が失脚すると、定家もまた不遇をかこつようになりますが、正治2(1200)年に
「駒とめて 袖うちはらふ 陰もなし 佐野の渡りの 雪の夕暮」
(馬をとめ、袖に降り積もった雪を振り払う物陰もない。佐野の渡し場の雪の夕暮れよ)
という歌が後鳥羽上皇に激賞され、その日のうちに宮廷への出入りを許されることとなりました。
 和歌をこよなく愛する後鳥羽上皇は、定家を審判として歌合を頻繁に行うなど定家を重用するようになります。
 建仁元(1201)年には上皇から『新古今和歌集』の編纂を命じられ、定家はこれを元久2(1205)年に完成させました。
 『新古今和歌集』に掲載された定家の歌で有名なものといえば、
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」
が挙げられます。西行、寂連(じゃくれん:1139~1202)と並ぶ秋の夕暮れを歌った「三夕」の一つです。

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