日本人の物語01527【室町/東国/享徳の乱】太田道灌の躍進
太田道灌は名前自体は有名ですが、何をした人かはあまり知られていないようです。今後、享徳の乱の中で大活躍することになります。
寛正2/享徳10(1461)年に入り、享徳の乱は7年目に入りました。鎌倉を捨てて駿河に帰国した今川範忠は体調を崩していたらしく、3月20日に息子の義忠(よしただ:1436~1476)に家督を譲り、5月26日に死去しました。
この年には、成氏方から上杉方に寝返った岩松持国がまたもや成氏方に戻ろうとしたことが露見し、従兄の岩松家純に殺害されました。その根拠として、5月14日付けの将軍義政から岩松家純宛ての書状で
「右京大夫(持国)父子を内通の罪で沙汰をしたと聞いた。神妙なことである」
と書かれたものが現存しています。成氏方への寝返りが起こったということは、上杉方がそれだけ苦戦している証拠です。
苦戦していると、士気も下がり内紛を誘発するものです。10月には、堀越公方政知の側近の犬懸上杉教朝が謎の自害を遂げました。原因は伝わっていませんが、政知と上杉家との板挟みになった可能性が指摘されています。特に、もう一人の政知側近である渋川義鏡はひどく敵を増やしていたらしく、この自害事件以降、渋川義鏡名義の文書が発出されなくなっているのです。どうやら失脚したものと考えられます。
きな臭い空気が流れる上杉の陣の中で、めきめきと力をつけていたのが扇谷上杉家家宰の太田道灌でした。道灌は父・道真から家宰の地位を譲り受け、江戸城を築城し、この頃は鎌倉の事実上の統治権を有していたようです。
この年の秋には、道灌が鶴岡八幡宮に対して、関戸(東京都多摩市)の代官職をほしいと申し出たとの記録があります。鶴岡八幡宮では既に別の人物に代官をあてがうことを内定していたので、この申し出を断ろうとしたのですが、珍祐(ちんゆう)という神官が
「今回の戦乱で当社の別当や僧らが無事でいられたのは太田殿のおかげではないか。今後も何かあったら太田殿に相談しなければならないのに、このような場で揉めるわけにはいかない」
と主張し、道灌の申請を認める判断をしました。確かにこの前後、鶴岡八幡宮の神官たちは領内の揉め事を道灌に何度も相談している様子が史料から見て取れます。
長い戦乱の中で、上杉一族はその結束を徐々に乱していきます。寛正3/享徳11(1462)年3月には、将軍義政から政知に対し
「(扇谷上杉)持朝に関する風説は驚きである。持朝は代々忠節を尽くしてきた者であるから、粗略に扱うことのないように」
と書き送った書状が現存しています。つまりこの頃持朝に裏切りの噂が流れていたらしく、持朝と政知の間に隙間風が吹いていたのです。原因は、政知が伊豆国の所領問題に介入し、領主たる持朝の権限を奪ったことのようです。
鎌倉の仏教勢力は、京都のそれに比べると力がないようですね。
