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日本人の物語01623【室町/東国/長尾景春の乱】文明の都鄙和睦

「都鄙」の「鄙」という漢字、なかなか使わないですよね。使う機会があるのは、田舎であることを表す「鄙びた(ひなびた)」という単語くらいでしょうか。

 長尾景春の乱が完全に鎮圧されたため、成氏はもはや抵抗する意欲を失っていたらしく、一切の軍事行動を取らなくなりました。この頃の成氏は
「自分は停戦協定を守っていた。景春が勝手に戦闘を継続しただけで、私は関係ない」
と自己正当化して幕府との和睦を実現することに必死になっていたものと思われます。
 文明13(1481)年5月には水戸城の江戸通長が南下し、小田成治(おだしげはる:1449~1514)と小鶴原(茨城県茨城町)で戦いましたが、これは享徳の乱とは無関係な所領争いのようです。
 成氏は、もはや景春を頼ることはできないし、山内・扇谷に今更頼るのもおかしな話です。そこで成氏はいろいろな相手に仲介を依頼しています。例えば文明13(1481)年3月には結城氏広に依頼しましたがその氏広が4月27日に死去し、以後は結城家重臣の多賀谷氏家(たがやうじいえ:1408~1465)が代役を務めましたが、家格が低すぎて仲介は難しいでしょう。
 同年7月には、成氏が越後上杉房定に仲介を依頼した書状が残っています。越後上杉家なら家格は十分です。最終的にはこの越後上杉房定が話をつけてくれ、文明14(1482)年11月27日に房定を仲介とした都鄙和睦が遂に成立しました。かつての永享の都鄙和睦(01360回参照)、応仁の都鄙和睦(01552回参照)と区別して「文明の都鄙和睦」と呼ばれますが、単に「都鄙和睦」というとこの文明期のものを指します。かくも長くかかったのは、冬季には越後まで書状を届けることができなかったためと思われます。
 和睦の条件として最も困難なポイントは、堀越公方の扱いでした。幕府は成氏の後釜に据えるつもりで将軍義政の庶兄・政知を送り込んでいましたから、成氏が復活するとなると政知の立場は宙に浮いてしまいます。そのため、政知は都鄙和睦にずっと反対していました。
 そこで、和睦条件として成氏が伊豆国内の領地を、上杉氏が伊豆守護職を、それぞれ政知に差し出すことが盛り込まれました。これにより、政知は伊豆一国を支配できることとなりました。とはいえ、それでも鎌倉公方の権限に比べると領国はひどく小さく、政知には不満が残ったと思われます。
 関東全域を支配する権限を得られなかった政知は、自らの夢を息子の清晃(せいこう:後の11代将軍義澄:1466~1523)に託し、清晃を次期将軍に据えるべく幕府に働きかけるようになります。
 これにて28年に渡った享徳の乱が終結しました。
 成氏は鎌倉に帰ることなく、引き続き古河を拠点に関東を統治することとなり、上杉と和睦はしたものの一定の緊張関係を継続することとなりました。仲介に成功した越後上杉房定は褒美として相模守に任官し、大いに家格を上げました。扇谷上杉定正は和睦によって乱が終結したことに不満を持ち、和睦を主張していた道灌と対立するようになります。
 このように乱は収まったものの、いろいろな不安要素が残ったままです。

もうこの後は、豊臣秀吉による天下統一までは平和は訪れません。

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