日本人の物語01351【室町/義教期】悲劇の朝鮮通信使・李藝
この李藝(りげい)という人物。伝記が1冊出版され、日韓共同製作のドキュメンタリー映画も作られ、韓国には銅像まであるのですが、日本ではWikipediaの項目さえ作られていません。もっと有名になると良いのですが。
正長2(1429)年6月19日。将軍就任間もない義教に対し、李氏朝鮮が派遣した「通信使」が謁見しました。「朝鮮通信使」というと江戸時代に李氏朝鮮が派遣してきた使節というイメージがありますが、実際には室町時代に始まったものであり、この義教に謁見した使節こそが記念すべき第1回朝鮮通信使でした。
正使は朴瑞生(ぼくずいせい)、副使が李藝(りげい:1373~1445)という人物で、この李藝は室町前期の日朝関係を担った外交官として知られています。この機会に李藝の生涯を紹介しておきましょう。
朝鮮暦の恭愍王22(1373)年に蔚山(ウルサン)に産まれた李藝は、8歳のときに倭寇の襲撃を受け、母親を捕虜として連れ去られるという悲劇に見舞われました。
その後、蔚山郡主の李殷(りいん)に仕えましたが、太祖5(1396)年12月に倭寇がまた来襲し、李殷を拉致して行きました。多くの官吏らが逃げ惑う中、李藝は密かに倭寇の船に乗り込み、海上に出たところで姿を現して
「郡主の世話役として私も連れていけ」
と要求しました。倭寇たちは驚きながらも李藝の忠誠心を称え、捕虜たちの身柄を丁重に取り扱うようになり、翌年2月に郡主ともども蔚山に戻ることができました。
この頃、朝鮮王国は倭寇による略奪に苦しめられ、日本政府に倭寇の取締りと捕虜となった朝鮮人の返還を求めていました。そのための使節として、定宗2(1400)年に回礼使・尹銘(いんめい)が九州に派遣されることとなり、李藝は自ら手を挙げてその随行団の一員となりました。その目的は、8歳のときに生き別れた母を探すことでした。
対馬・壱岐・松浦で李藝は仕事の空き時間を利用して民家を一軒一軒回り、倭寇に連れ去られた朝鮮人を探し回りました。発見された朝鮮人を次々と連れ帰り、李藝は捕虜返還の仕事で大きな成果を上げましたが、母は遂に見つかりませんでした。李藝はその生涯のほとんどを捕虜の返還に捧げ、44年間で40回も日本に渡り、返還を実現した捕虜は667人にも上りました。また、日本との関係改善にも取り組み、4回も上洛して政府高官と会談し、大蔵経の譲与にも貢献しています。
世宗25(1443)年、71歳で最後の航海に挑もうとしたとき、世宗は李藝の身体を心配して派遣を止めようとしました。そのとき李藝は世宗に直談判し、
「私が行けば倭人たちは喜んで迎えてくれるでしょう。私に偽りを申す倭人はおりません」
とまで述べ、渡航の承認を受けました。
実際、李藝は対馬島民たちにかなり慕われていたようです。対馬の円通寺には現在、李藝の功績を記した碑が建てられています。
幼時に倭寇に母を奪われながらも日本との親善外交に務めた李藝の存在は、もっと知られてもよいと思われます。
李藝(りげい)は韓国語読みでは「イ・イェ」というそうです。
