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日本人の物語00155【古墳】仏教伝来*

 宣化天皇3(538)年、百済の聖明王(せいめいおう:?~554)から欽明天皇宛てに、仏像が贈呈されてきました。(前述のとおり、日本書紀の年号を用いると宣化天皇3年ですが、実際には欽明天皇の治世でした。)欽明天皇は「仏法はすばらしい法のようだ。しかし信ずべきか否かを決することができない」と言って、群臣に意見を聞きました。どうやら欽明天皇は強いリーダーシップで周囲を引っ張っていくタイプではなく、合議制で入念に事を運ぼうとする性格だったようです。
 このとき、政権を担っていたのは、大臣の蘇我稲目(そがのいなめ:506~570)と大連の物部尾輿(もののべのおこし)の2人でした。蘇我稲目は「各国が信仰しています。我が国だけ信仰しないわけにいかないでしょう」と言って、しきりに信仰を薦めます。一方、物部尾輿と連の中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、「外国の神を信仰しては、神の怒りを招くことになります」と言って反対します。我が国には既に神道があるではないかというのです。ちなみに中臣鎌子とは、あの中臣鎌足の6代祖先に当たる人物です。
 欽明天皇は「この仏像は稲目にやるから、試しに信奉してみよ」と命じました。こうして、蘇我稲目は向原(むくはら:奈良県明日香村)にあった自宅に仏像を安置して拝むようになりました。これを「豊浦寺(とゆらでら)」と呼んで、日本の最初の寺院とする考えもあるのですが、研究者の間では、これを寺院として認めないという考えが支配的なようです。
 さて、ここで日本仏教にとって非常に運の悪い出来事が起こります。折りしも天然痘が流行したのです。物部尾輿は鬼の首でもとったように、「そらみろ。外国の神を祀ったせいだ」といきり立ちます。物部尾輿は欽明天皇に直訴し、許可を得て蘇我稲目宅に焼き討ちをかけ、仏像を川に捨ててしまいます。
 蘇我稲目旧宅跡には現在、浄土真宗の向原寺(こうげんじ)という寺があります。向原寺そのものは比較的新しい寺で、歴史的な遺物は見られないのですが、向原寺の前に「豊浦寺」という碑があります。蘇我稲目がここに住み、物部尾輿がここを襲ったのだなあと思うと感慨深いものがありますね。
 さて、蘇我稲目宅にあった仏像を捨てた川というのは、難波の堀江と呼ばれる運河だったそうで、推古天皇8(600)年。信濃国(長野県)から飛鳥に上京していた本田善光(ほんだよしみつ)という男がその運河の近くを通りかかったとき、「ここだ、ここだ」と不思議な声を聞きました。声のする方へ行くと、運河の中から仏像が突然出現して、「私を祀りなさい」と言って善光の背中に乗りかかって来ました。
 善光は信濃国の実家に戻り、仏像を家に安置し、如来堂を建立しました。この仏像こそが、聖明王から贈られ、蘇我稲目が家に祀ったという仏像だそうです。そして、その善光の家が寺となり、現在の善光寺(長野市)になったというわけです。今も善光寺には、聖明王が贈ったという阿弥陀如来像があるそうなのですが、絶対秘仏とされ、公開されることはありません。

蘇我稲目が建てた日本初の寺院、豊浦寺の跡地。2026年5月5日撮影。
その豊浦寺の跡地には、現在向原寺という寺院が建っている。2026年5月5日撮影。

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