日本人の物語01455【室町/西国/大乱前夜】筒井氏の内紛
いろんな地域の争いを書いていますが、大和が一番分かりにくい気がします。
【⑤大和国における旧南朝方と旧北朝方の争い】
義教が殺され、畠山持国が復権したことによって、大和情勢も新たな動きを見せました。
前述のとおり、大和では「大和永享の乱」と呼ばれる旧南朝方の越智氏・豊田氏・箸尾氏と旧北朝方(幕府方)の筒井氏との争いが続いていました。そして畠山満家・持国父子は一貫して箸尾氏の味方でしたが、将軍義教は筒井氏出身の成身院光宣からの嘆願を受けて筒井氏援助を決めてしまったのでした。
まとめると次のとおりです。
北朝方→義教派: 筒井氏、成身院光宣、大乗院経覚
南朝方→反義教派: 畠山持国、越智氏・豊田氏・箸尾氏
(大乗院経覚は北朝方でしたが、義教の勘気をこうむって追放中です)
さて、義教が横死したことで南朝方は大いに盛り上がりました。この機に筒井氏を一掃しようと、嘉吉元(1441)年7月14日、越智維通の遺児・越智家栄(おちいえひで:1432~1500)が挙兵します。畠山持国の復権によって、箸尾氏のみならず越智氏も勢いを増しているようです。
一方、劣勢に立たされた筒井氏は、時ならぬ内紛に悩まされていました。というのも、当時の筒井家当主の筒井順弘(つついじゅんこう:?~1443)は弟の成身院光宣に擁立された人物でしたが、弟が何かと介入してくることを快く思わず、当主就任後に光宣の追放を試みていたのです。
しかし国人たちへの影響力は光宣の方が上でした。光宣は指示を聞かない兄・順弘を10月5日に解任し、追放してしまいます。順弘は縁者の立野氏を頼って落ち延びました。光宣はその後速やかに幕府の支援を受け、10月8日に順弘の弟・筒井順永(つついじゅんえい:1419~1476)を当主に擁立しました。これで内紛は終了し、やっと落ち着いて越智氏・豊田氏・箸尾氏と対峙することができそうです。
ところが喜んだのも束の間、光宣の前に新たな敵が現れました。南朝方の越智氏・豊田氏・箸尾氏以外にも、義教横死を喜ぶ勢力がいたのです。そう、北朝方でありながら義教の勘気を受けて追放されていた大乗院経覚です。
経覚は10月8日、追放先の宝寿寺(奈良県三郷町)を出て、己心寺(こしんじ:奈良県奈良市)に入りました。その狙いは、もちろん興福寺大乗院門主への復帰です。経覚はじわりじわりと興福寺に近づいていきます。
大和は国人たちがひしめき合っていて、まとめる力を持った人がいないんですよね。実に難しい国です。
