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日本人の物語00681【鎌倉中期】91代後宇多天皇(大覚寺統)

 皇后佶子と中宮嬉子の出産争いについて前述しましたが、この頃にはその決着がついていました。皇后佶子が産んだ1男1女は夭折したものの、文永4(1267)年12月1日に皇后佶子が産んだ次男・世仁親王(よひとしんのう:1267~1324)は無事に育ち、翌文永5(1268)年8月には早くも皇太子となりました。一方、嬉子は子を産んでおらず、どうやら亀山天皇の寵愛は皇后佶子に集中したように見受けられます。
 孫が皇太子として成長していくのを喜んでいた後嵯峨法皇は、文永9(1272)年2月17日に崩御しました。この後嵯峨法皇の遺言が曖昧であったことが、日本の歴史を大きく揺るがしてしまいます。そう、後の南北朝時代の到来の原因となるのです。
「朕が死んでから50日目に披見せよ」
と言われていたその遺言状を開いたところ、臣下の予想に反してそこには
「治天の君については幕府の計らいに任せる」
とあり、各荘園について後深草・亀山の配分が書かれているだけでした。長男・後深草上皇が治天の君となって院政を布くのがよいのか、はたまた次男・亀山天皇が自ら親政を振るうのがよいのか、肝心なことが書かれていないのです。
 後嵯峨法皇は明らかに次男・亀山天皇の方を可愛がっていました。それは亀山天皇の子・世仁親王を皇太子に立てたことからも分かります。恐らく幕府のおかげで皇位に就くことができた後嵯峨法皇は、個人的には亀山天皇親政を望みつつもそれを自ら口にすることを慎み、あくまでも幕府を立てようとしたのでしょう。
 しかし幕府としては、
「倒幕を企図した後鳥羽系だけは皇位に就けない」
という意志はあるものの、それ以外には何らの意見もありません。兄弟のどちらを治天の君とするか、判断を委ねられたこと自体が迷惑だったようで、兄弟の母である西園寺姞子に
「ご遺志はどちらであったか」
とストレートに尋ねることとしました。
 姞子が正直に
「法皇のご遺志は帝の親政にございました」
と答えたことで、幕府は亀山天皇親政を決断し、亀山天皇が治天の君となりました。
 文永11(1274)年1月26日。亀山天皇は子の世仁親王に譲位しました。後宇多天皇です。この後、後深草上皇は自らの子孫が皇位に就けないことを憂慮し、巻き返しを図ることとなるのですが、それは元寇の後の出来事です。

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