見出し画像

日本人の物語00571【鎌倉前期】大姫入内工作 頼朝上洛

 建久6(1195)年3月4日。頼朝は5年ぶりの上洛を果たしました。その目的は、表向きは東大寺落慶供養に参列するためでしたが、実際には17歳になる長女・大姫の嫁ぎ先を決めるためでした。
 前述のとおり、大姫は5歳のときに木曽義高と婚約し、6歳のときにその義高を殺されるという体験によって精神を病み、その後ずっと病気がちでした。その大姫の嫁ぎ先として頼朝が考えたのは、公家の一条高能(いちじょうたかよし:1176~1198)でした。しかし、その縁談を知った大姫は
「そんな結婚をするくらいなら、谷に身を投げる」
とまで言って拒絶しました。
 しかし頼朝は懲りずに次の縁談を進めようとします。次の嫁ぎ先候補は、なんと後鳥羽天皇でした。
 果たして頼朝は、大姫に幸せな結婚生活を送らせてやりたいと思っていたのか、単に天皇の外戚となるための手駒と思っていたのか、その思いのうちは計り知れませんが、いずれにせよ大姫が喜ぶはずがありません。
 さて、頼朝が娘を入内させるには、朝廷内の権力者と懇意にしておく必要があります。これまで鎌倉幕府が朝廷と交渉する際に窓口としていたのは、九条兼実でした。九条兼実はかねてよりアンチ平家方の公家として知られており、頼朝が後白河法皇に圧力をかけて兼実を内覧に就任させた経緯があったのでしたね。
 ところが今回、頼朝は交渉相手に兼実を選びませんでした。おそらく兼実の娘・任子(たえこ:1173~1239)が後鳥羽天皇の中宮でありライバルとなってしまうため、大姫の入内に賛成してくれなさそうだと判断したためでしょう。
 そうした考えから、頼朝は露骨に兼実を避け始めます。この度の上洛において、頼朝は兼実に対して大した物を進呈しなかったのです。兼実は日記『玉葉』に
「頼朝卿、馬二匹を送る。甚だ乏少。これを如何せん」
と書き、進物の少なさに戸惑いを感じています。
 頼朝が新たな交渉窓口に選んだのは、丹後局(たんごのつぼね:1151~1216)と土御門通親の二人でしたが、明らかにこの窓口変更は頼朝にとって失敗でした。二人は予想以上の老獪なネゴシエーターで、頼朝を巧みに翻弄します。頼朝は多くの譲歩を強いられることとなるのです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集