日本人の物語01080【南北朝中期】第六次京都合戦 直冬の託宣
尊氏・直義兄弟は互いを憎み切れずに戦っていましたが、尊氏・直冬父子も何だか不思議な関係のようですね。
東寺から八幡へと敗走した直冬のもとには、なんと5万騎もの軍勢が集まっていました。さらにここに伊賀・伊勢・和泉・紀伊からも軍勢が集まるとの情報もあり、
「それなら京の尊氏軍ともう一戦できるではないか」
との意見が出て、直冬はどうすべきか迷います。
直冬は
「我々が決めるよりも、八幡(石清水八幡宮)の神前で御神楽を催して、御託宣の言葉によって吉凶を占おうではないか」
といって、様々な供え物をして神のお告げを待ちました。
神官が鼓を打ち、禰宜が鈴を振り、実に重々しい儀式が執り行われます。そうした中で、巫女が神がかりになって、託宣を歌いあげました。
その託宣とやらが、こんな歌です。
「たらちねの 親を守りの 神なれば この手向けをば 受くるものかは」
なんと、神は親を守るべきものであるから、親不孝者の直冬が供えたものなど受け取らないというのです。これを聞いた南朝方の将兵たちは
「そうだ。この直冬を大将にして尊氏と戦っても勝てるわけがなかったのだ」
と合点して、さっさと自分の領国に戻っていってしまいました。
太平記はここで、
「直冬のように、子として父を攻めている者を天がどうして許すだろうか。以前、遊和軒朴翁が天竺の例を引いて『直冬が大将では勝つことは難しい』と眉をひそめて申したことは、全く当然である」
と述べています。確かに遊和軒朴翁なる人物が以前登場してもっともらしいことを述べていましたが(01071回参照)、実はこの遊和軒朴翁こそが太平記の作者の一人と目されている人物です。なんと手前味噌というか、自画自賛の記述なのでしょう。
直冬が敗れて間もなく、東寺の門にはこのような落首が掲げられました。
「とにかくに 取り立てにける 石塔も 九重よりして また落ちにけり」
(何とかして直冬を取り立てた石塔頼房も、また都から落ちてしまった)
「深き海 高き山名と 頼むなよ 昔もさりし 人とこそきけ」
(深い海、高い山というように山名を頼りにしてはいけない。以前も都を去った人なのだから)
「唐橋や 塩の小路の 焼けしこそ 桃井殿は 鬼味噌をすれ」
(唐橋や塩小路が焼けたのは、桃井直常が塩辛い焼き味噌を作るからだ)
京の人々は家を焼かれたというのに、なおもユーモアを忘れていないようです。
